ストリートカルチャーの中で育ったフォトグラファーの
  故郷へ向けられた実直でボーダレスな眼差し
 

大石祐介 さん(37)
 職業:フォトグラファー/ビデオグラファー
出身地:函館市
現住所:東京都
函館→札幌→東京

 

 
雑誌や広告業界の第一線で、フォトグラファー・ビデオグラファーとして活躍する大石祐介さん。小学生の頃にNBAと出会ったのをきっかけに、アメリカのストリートカルチャーに傾倒し、バスケットボールやダンスに明け暮れる青春時代を送っていたといいます。
大石さんが本格的に写真を撮り始めたのは28歳の頃。体調を悪くした際にリハビリのつもりでカメラを持ったのがきっかけでしたが、東京で出会った人たちとの繋がりから仕事を依頼される機会が増え、活動10周年を迎えた今年、これまでに撮りためてきたニューヨークのローカルなライフスタイルをまとめた初の写真集『LIFE THROUGH MY EYES』を発表しました。
「何かに特化してなくたって、普通の人だって何でもできるよ!」と語る大石さんに、本気で遊ぶことで得られた損得勘定抜きの人間関係や、様々な人とカルチャーが交じり合っていた札幌のストリートシーン、〝世代を超えた人々が交わる場所〟を作りたいという函館への想いなどについて伺いました。
全5回でお届けします。
 

取材・文章:阿部 光平、写真:馬場雄介、イラスト:阿部 麻美 公開日:2018年6月6日

 
 

 
 
 
 
 

物事の善悪を教えてくれた母と、柔軟でポジティブなマインドを与えてくれた父
 
 

━━函館にいた頃の話も聞きたいんですけど、自分で振り返ってみて、大石さんはどんな少年でしたか?
 
大石:もともとは体が弱くて、それが大人になっても出ちゃって体調を崩したんだけど、気も弱くて泣き虫だったね。けど、幼稚園の年長で人生がガラっと変わって。
 
━━幼稚園の年長で? ずいぶん早い転機ですね(笑)。何がきっかけだったんですか?
 
大石:ジャッキー・チェン。
 
━━(笑)。
 
大石:この人が人生変えたね。
 
━━映画を見て?
 
大石:うん。戦おうって(笑)。
 
━━(笑)。
 
大石:ジャッキーにめちゃくちゃ憧れててね。当時レンタルビデオ屋なんてほとんどなかったんだけど、親に頼んで本通りの『ワクワクランド』ってとこまで連れてってもらって、そこでジャッキーの映画ばっかり借りて見てた。『プロジェクトA』なんて、何回見たかわかんないわ。
それで、小学校のときはジャッキーのおかげで…、いや、おかげでっていうのも変だけどさ、すぐ誰かと戦ったりしてたね(笑)。俺は楽しくやってたつもりだけど、今思えば、嫌いな人もいたんじゃないかな。いきなり背中にドンッって肘打ちとかしてたから。
 
━━そういう子いました(笑)。
 
大石:そこから格闘系の漫画とか、プロレスとかボクシングとか格闘技が大好きになって。それと同時に野球も好きで、駒場小学校では少年野球やりながら、ミニバスもやってた。
 
━━多趣味!
 
大石:だから、今自分が雑食なのは、小さい頃から変わってないのかも。
それでいて、ひねくれ者で、みんなと一緒は嫌だっていう子だったから、周りの友達が6段切り替えの自転車に乗ってる中で、俺はチャリ屋でBMXを見つけて、「カッケー! 誰も乗ってないから、俺これ!」とかって、買ってもらったりして。
 
━━主張のある子だったんですね。
 
大石:そうだね。天邪鬼で、人と違う方がいいって思ってたかな。それは未だに。
だから、あんまり人とは群れなかった。仲いい友達はいるけど、この人だけと遊ぶって感じではなくて、こいつとも遊ぶし、あいつとも遊ぶしって感じで。まぁ、八方美人だね(笑)。
 

 
大石:だけど、中1で深堀から桔梗に転校したときには、学校で人気あるやつと揉めて、誰も話してくれなくなった時期があったね。学校行くのも一人だし、帰りも一人だし、バスケやっててもパスももらえないしって感じで。
 
━━それはキツイ状況ですね…。
 
大石:だけど、そのときも「負けないよ」っていう気持ちの方が強かったかな。これはもう、根比べだって思ってたから。ここで俺が学校に行かなくなったり、部活に出なくなったりしたら、もう戻ってこれないし、そういう子になっちゃうっていうのもわかってたからさ。
今思うと、子どもながらに意外といろんなことがわかってたんだなって。
 
━━その状態からは、無事に切り抜けて?
 
大石:うん。きっかけはひょんなことだったんだけど。その揉めたやつと喋るようになったら、全員が急に話しかけてくるようになったっていう。でも、それでみんなのこと嫌いかっていったら、そんなこともないし、あんまり気にしないタイプなんだろうね。
そこからは、もうバスケ。さっきもちょっと言ったけど、俺、NBAに憧れすぎてて、音楽もカルチャーも、全部NBAから入ったの。部活中も、体育館にラジカセ持っていって、HIPHOPかけたりとかしてさ。先生にスゲー怒られたけど(笑)。
 
━━それめちゃくちゃ楽しそう!
 
大石:楽しかったね! 桔梗中のバスケ部をNBAナイズしたチームにしたいって勝手に思ってて、先生とかもちょっとアメリカのヘッドコーチみたいな感じになったり、試合中にタオル回したりとかね。
あとは、NBAみたいに、攻守が変わるたびに校内放送で音楽流したいとか提案したりしてさ。結局、それは実現しなかったけどね(笑)。
  


 
━━当時の桔梗中は平和な学校だったんですか?
 
大石:深中は授業中に窓から出て帰るやつもいたし、それこそ学ランに刺繍入れて、ボンタン履いて、髪染めてとか。そんなやつばっかりだったけど、桔梗中には誰もそんな人いないし平和だったね。まぁ、先生に怒られるとかはあったけど、ハブにされるとか、先輩に呼び出されるとかより、世の中で1番恐いのは母ちゃんだと思ってたから。
 
━━「世の中で1番恐いのは母ちゃん」(笑)。
 
大石:俺は小学校のときに、悪さっていう悪さは全部やったの。まぁ、小学生だからかわいいもんだけど。その度に母ちゃんボッコボコにされてさ。
言葉で言われてもわかんないけど、ボコボコにされたらさすがにわかるじゃん。「これやっちゃだめなんだ」って。「悪いことする」→「ボコボコにされる」→「これもやっちゃだめなんだってわかる」っていうサイクル(笑)。だから、中学生になってからは、超優等生だった。悪いことなんて全然してない。
 
━━反抗期とかは、なかったんですか?
 
大石:いや、反抗できないよ、母ちゃんが恐くて(笑)。中学高校ってさ、恐い先輩とかいっぱいいるじゃん。そういう先輩たちから「タバコ吸えよ」とか言われても、「いや、大丈夫っす」って断れる勇気はあったね。これ吸って、問題になって、母ちゃんに怒られたときの方が恐いって思ってたから(笑)。
ただ、ボコボコにされたけど、虐待だなんて思ったことはなくて。もう、俺の中では本当にいい教育だった。よくわかったし、理不尽ではなかったから。
 
━━自分が悪いから怒られてるっていう。
 
大石:そーそー。お前は今、悪いことしたんだよって。だから、本当に素晴らしい教育だったと思ってる。

  

 
━━親父さんは、どんなタイプの人なんですか?
 
大石:親父は、もう世界で一番尊敬してる。自由な人だね。
好きなことばっかやってきた結果、今の仕事をやってるって言ってて。電気工事のちっちゃい会社なんだけど。でもやっぱさ、子どもを育てて、家を建てるだけで、もう尊敬なわけよ。大人になってわかることだけど。
 
━━うんうん、そうですよね。
 
大石:で、小さい頃とか思い出すと、よく遊んでくれた親父だったの。貧乏とまではいわないけど、そんなに金がなかった時代もあったと思うのね。そのときも、台車を逆さまにしてピッチングマシーンを作ってくれたりさ、電気工事のいろんな工具があるから、鉄パイプをグネッと曲げてバスケットゴール作って、家に取りつけてくれたりとかね。バットとかも、角材を切り出して、作ってくれたりしたのよ。
それは考えようによっちゃ、恥ずかしいって感じる子もいると思うんだよ。でも、俺はそれが嬉しくて。「俺ん家にしかないものだ」っていうね。そこも天邪鬼だったのかもしれないけど。
 
━━そういうマインドって、どこで培われたんですかね?
 
大石:なんだろうな。でも、きっと両親じゃない?それが一番大きいと思う。
お金があるに越したことないけど、「お金がなくても面白いことできるよ」っていう感覚を与えてくれたのは親父かもしれない。そこに楽しさとか、幸せとかがちょっと詰まってるのかなって。
 
━━子どもと真っ直ぐに向き合ってくれるご両親なんですね。
 
大石:そう思うようになったのは、大人になってからだけどね。
母ちゃんはずっと恐いし、親父は、テストの前日に部屋で勉強してると、ギター弾きながら入ってきてさ。「おい、ゆーすけ、ちょっとセッションしようぜー!」とかって(笑)。
 
━━確かに自由(笑)。
 
大石:「俺、今ちょっと忙しい。明日テストだから」って言うと、「お前、そんな無駄なことやってんじゃねーよ。勉強なんかやってもロクなやつになんねーぞ」って言うような親父でさ。「テスト勉強より、音楽だろう!」って(笑)。

 
 
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