山田伸広
さん(44)
職業:カフェ店主
出身地:埼玉県
現住所:函館市
埼玉→神奈川→東京→函館
大沼で養豚場を営むお兄さんの一言で移住を決め、いくつもの運命的な出会いを経て、函館に来てからわずか4カ月足らずでカフェ『Transistor CAFE』をオープンさせた山田伸広さん。一見すると、何もかもが順風満帆に進んでいるように見ますが、新天地での開業に至るまでには移住者ならではの様々な苦悩があったといいます。
関東で生まれ育ち、人気カフェの店長を辞めてまで函館にやってきた山田さんに、古民家を改装して作られた『Transistor CAFE』がオープンするまでのドラマチックな物語や、夢破れて生きる希望を失っていた過去と、「不特定多数のお客さんではなく、個人個人に喜んでもらいたい」という店づくりの理念などについて伺いました。
取材・文章・撮影:阿部 光平、イラスト:阿部 麻美 公開日:2018年3月7日
人知れず苦悩を抱え続けた新天地での開業
━━家は無事に決まりましたが、そこからお店のオープンまではどのような道のりだったのでしょうか?
山田:東京の仕事を辞めるまでの間にも、香生里さんとやりとりをしていて、「本当にカフェをやるのかな、俺?」って半信半疑ながらも、だんだんと「本当にできたらいいな」っていう気持ちになってきたんですよ。
だけど、東京とかでカフェをやるってなったら、やっぱり契約時点で半年~ 10 ヶ月っていうのが相場なんです。
━━その分の家賃を前払いするってことですか?
山田:そうです、そうです。補償金として。だから、すごく初期投資のお金がかかるんですよ。さらに、厨房機器やら備品やらで、個人店でも1千万円以上かかっちゃうっていうのがザラなんです。
その上、ここはもともと民家ですからね。改装にもお金がかかってくるわけです。そうやって、だんだん現実的なことを考えようになると、すごく難しいような気がしてきたんですよね。
━━「今すぐにはちょっと…」と。
山田:はい。そういう気持ちで移住してきたんですけど、函館に着いた日に大きな地震があったんですよ。震度5とかの。そのときは、「初日に地震が起きるなんて、幸先悪いなぁ」と思ってたんですけど、今考えると、あれが波乱万丈の始まりだったのかなって思います。
━━tomboloの香生里さんにインタビューをしたときに伺ったんですけど、ここにカフェを作ることになったときには、もう店名も決まってたし、ロゴも完成していたという話ですよね。あとは、実際にカフェをやる人さえ決まればオープンできるという状態だったと聞きましたが、店名やロゴが決められていたことに抵抗はなかったんですか? もっと自分のカラーを出したいというような気持ちは?
山田:香生里さんのインタビューを読むと「店名とかにこだわりがない」って思ってたらしいんですけど、決してそんなことはなくて、僕がなんでそのまま店をやることになったかというと、 Transistor CAFE って店名を聞いたときに、どういう気持ちでつけられた名前なのかがすぐにわかったんです。
━━店名の由来がすぐにわかった?
山田:はい。音響の歴史でいうと、トランジスタというのは真空管の次に出てきたものなんです。ここに住んでいたおじいちゃんが真空管アンプを使っていたのは、見学に来たときに知っていたので、 Transistor CAFE って名前には、「おじいちゃんが、次の世代に建物を引き継ぐ」という意味が込められてるんだろうってのがすぐにわかったんです。僕、音響の専門学校に行ってたんですよ。
━━なるほど! それですぐにピンときたんですね。
山田:はい。なので、店名にこだわりがなかったんじゃなくて、「めちゃくちゃいい名前だ!」と思ったんです。これ以上の店名はないなって。
━━面白いですねー。同じ話を違う角度から聞くというのは。
山田:まぁ、それを言葉にして伝えていなかったので、こだわりがない感じに見えたのかもしれませんが(笑)。
━━その後、実際に改装工事が始まったと思うんですけど、具体的にはどういう工程で進めていったんですか?
山田:最初は、知り合い同士だからといってなぁなぁになってしまわないように、しっかりと契約面の話をしました。
例えば、この建物には水道とかガスの設備がなかったんですよ。なので、どこからどこまでの工事が大家さん持ちで、どこが自分の負担なのかっていうのを明確にしました。それから、賃貸契約をして、解体作業が始まりました。最初はひとりだったんですけど。
━━ひとりで?
山田:もちろん専門家の人から「 ここは壊していく、ここは壊しちゃだめ」とかってアドバイスを受けながらですけど。とにかく、そのときに自分ができるのって、解体しかなかったんですよ。なので、日中は解体作業をして、家ではメニューを考えたりしてました。あとは、函館の街のことをよく知らなかったので、すごく散策した覚えがあります。
そういう暮らしをしているうちに、 tombolo さんや『箱バル不動産 』さんの協力で、いろんな人が手伝ってくれるようになったりして、まるまる1ヶ月で解体が終わったんです。それから、自分が持ってるお金では全然足りなかったので、資金集めを始めました。その頃に、内装を担当してくれたタカさんと出会ったんです。
━━以前、IN&OUTのインタビューにも登場してくれた谷藤崇司さんですね。函館にUターンをしてきて、内装業を営んでいる。
山田:そうです、そうです。タカさんが函館に帰ってきたのが、ちょうど僕がカフェを始めようと思っていたタイミングと一緒くらいだったんです。箱バル不動産の方がタカさんを紹介してくれて、ここのカフェの内装を担当してもらえることになったんですよ。
━━またも運命的な巡り合わせですね。
山田:そうですね。だけど、その頃はいろんなバランスが不安定になっていたというか、関わってくれる方が多くなっていって、全体的な統制が失われつつあったんですよね。
━━どういうことですか?
山田:んー。こういう言い方をすると、すごく中途半端な感じなんですけど、自分もこのカフェをどうするかっていう考えが固まってなかったんですよね。「こんなカフェをやりたい」って気持ちからスタートしていれば、その情熱で進んでいけたんでしょうけど、「ここでお店を始めることになった」というようなスタートだったので、「さて、どうしよう」みたいな感じの進み方だったんです。
それでいろんな人に携わってもらっている中で、今まで考えてたことをひっくり返すようなこともあったりして。僕もよくわかっていなくて、配慮が足りなかったところもあったんですけど … 。
━━なるほど。客観的に見るとカフェをやることが決まったところから、すべてがタイミングよくスムーズに進んでいるように見えましたけど、その真っ只中にいる本人からすると、次から次へと予期せぬことが起こっているというか、まるでジェットコースターに乗ってるような感覚なのかもしれないですね。
山田:そうですね(笑)。もう後には引けないって気持ちもありましたし。
━━ですよね。
山田:そもそもカフェのオープンは4月に行われるバル街( ※ 1)に合わせようっていうのが目標だったんです。箱バル不動産と共同で出店しようってことになっていて。
だけど、僕は資金調達が滞っていたし、内装のことも決まってなかったし、だけどオープン日は決まってるってことで、その頃はメンタル的にもかなり参っていて。
━━精神的に追い詰められて…。
山田:えぇ。なんか、いろんなことが上手くいかなくって、何のために函館に来たのかもわからなくなっていました。一時は、本当に辞めようかとも思ったんですよ、カフェをやるの。
助けてくれる人はたくさんいたんですけど、まだみんなとの関係も浅いですし、その中でも「とにかく急がなきゃいけない」って気持ちだけが日増しに強くなっていって。
━━気心知れた仲間がいるならまだしも、新天地でそういう状況に立たされるのは精神的に辛いですよね。
山田:そんな中でも、タカさんは毎日休みなく内装を進めてくれていて。僕も現場の手伝いはしてたんですけど、大工仕事に関してはド素人じゃないですか。タカさんの指示に従って作業していくんですけど、まぁ思うように進まないから、タカさんも歯がゆかったと思うんですよ。
━━はい、はい。
山田:タカさんは最初から、プロとして期限は守るって言ってくれていたので、頭の中にははっきりとタイムスケジュールがあったと思うんですけど、僕の作業スピードが追いつかないせいで工事に遅れが出ていたんです。そういう状況にありながら、本当に間に合わせたいはずの僕が「ちょっともう無理かも」みたいに思っていることを、口には出してないですけどタカさんも感じていたと思うんですよね。
━━そういう雰囲気って、口にしなくても伝わったりしますもんね。
山田:もう完全にキャパオーバーだったんです。それで、いよいよ追い詰められてきて、バル街がもうすぐだってなったときに、箱バル不動産のメンバーが、万が一間に合わなかったときの対応策ってのを、いくつか考えてくれたんです。
たぶん、箱バル不動産側も、いろんな人から「バル街で何するの?」って聞かれていたと思うんですよ。だけど、何も決まってないから宣伝もできないという状況で。たぶん、いろんな人がフラストレーションを感じていたと思います。
━━口には出さなくても歯がゆさはあったでしょうね。
山田:そんな中で、僕は内装をやりながら、ダメだったときのプランも考えながら、もうパンク状態で。本当にイヤになっちゃって、「どうしてもメニューを考えたい」って言って、一度現場から逃げたことがあったんです。
━━「現場から逃げた」というのは?
山田:やらなきゃいけないことがあるっていう言い訳を作って、現場を後にして、その間もいろんな人が手伝いに来てくれているにも関わらず、当のお店をやる僕本人は逃げたんです。何の役にも立ってないし、誰の役にも立ててない自分がすごくイヤになってしまって … 。
そのときに、ついにタカさんが口を開いたんですよ。「そんなんじゃダメだと思います。もっと勉強できるはずです」って。
━━あえて厳しい言葉を。
山田:タカさんは、限界まで我慢した上で言ったんだと思うんですよね。何歳も上の僕に、今までずっと我慢していたであろうことを。
僕はそれを聞いたときに、目が覚めたんです。自分は何をしてたんだろうって。要は、キャパオーバーを言い訳にして、逃げようとしたんですけど、それでもタカさんはストイックに、ずっと諦めずに仕事を続けていてくれたんですよね。だから、タカさんには「そんなこと言わせてしまってすいません」っていう気持ちでした。
━━依頼主だし、歳も離れているし、言い難いことではあったでしょうね。
山田:その言葉は、ちょっと悔しかったんですけど、でもそれがなかったら、あれ以上は進めてなかったかもしれないです。
疑問も感じていたし、言いたいことも誰にも言えなかったけど、タカさんは、その線を越えてきてくれたんですよね。だから、自分にとっては、今でも恩人のような、年は 10 歳以上離れてますけど友人のような、なんか不思議な存在なんですよね。だから今でも、内装を直したときには写メ撮ってタカさんに送ったり、あとはまた一緒に現場に入りたいって思ってるんですよ、実は。
━━すっかり師弟のような関係性ですね(笑)。
山田:そうなんです(笑)。毎日、本当に朝から晩まで一緒でしたから。
タカさんには、プロ意識ってのをまざまざと見せつけられた気がしました。当時は、まだ自分の仕事を見せられるフィールドが函館にはなかったんです。自分が自分の仕事を見せられるのって、お店ができてからだから、それまでの時間って何も自分を出せないというか。役立たずな自分ばっかりが見えてきちゃってたんですよ。
━━実力を発揮できる場がないっていうのも、やっぱり歯がゆいですよね。
山田:そういうのがあった分、お店ができるまでを支えてくれたタカさんとか箱バル不動産のみんなとかは、自分の中では今でも特別な存在です。
━━新天地に越してきて、そういう濃厚な人間関係を形成するのって難しいですよね。少なくとも時間がかかることじゃないですか。それが一気に濃縮された数ヶ月間だったんですね。
山田:そう思いますね。今考えると、面白いなって思えますけど。そのときは、本当に迷いながらの日々でした。
あと、こっちに来てすごく思ったのが、バランスなんですよね。
━━バランス?
山田:東京に比べると周りがすごく狭い街じゃないですか。だから、新参者でやってきて嫌われたらアウトかなって。この街の関係性とかシステムを知らないから、「人に嫌われたら生きていけないんじゃないかな」って。だから、自然と嫌われないようにしていた自分がいたような気がするんですよ。
━━人から嫌われないような振る舞い方をしていた。
山田:そうですね。嫌な印象を持たれないように。それがまた疲れを増幅させていたとも思います。言いたいことも言えなかったりするし。
━━角が立たないように、角が立たないようにと。
山田:本当にそうしてましたね。今でもそうなってる部分もあるかもしれないけど、以前よりはすごく自然です。その頃は、本当に人と人とのバランスっていうのを人一倍考えていましたね。
━━なるほど。それで、お店の方はバル街に間に合ったんですか?
山田:もう、間に合うわけがないと思ってたんですよ。周りからもそういう声がありましたし。だけど、最後はどうにか間に合ったんです。
━━おぉ!
山田:今でも忘れられないのは、保健所の検査がある前日とかに、タカさんと夜中に作業していて、全部が終わったわけですよ。そのときに2人で黙って店を見渡して、「これ見ながら酒飲めますよね」みたいな話をして(笑)。やりきったという瞬間が、すごく嬉しくて。あれは本当に忘れられないですね。
━━保健所の検査もドキドキですよね。お店が完成したのに、検査が通らなかったら営業できないわけですし。
山田:だから事前に何度も保健所に行って、現状を伝えて、あとは何が足りないかっていうのを聞きに行ってました。確実に審査を通過したかったから、何度も通ったんですよ。「また来た」みたいな顔で見られたこともありましたけどね(笑)。でも、本当に必死だったんです。
━━実際、オープン日となったバル街での反響はいかがでしたか?
山田:すごく盛況で、250人くらいのお客さんが来てくださって。箱バル不動産のメンバーは知り合いがたくさんいるので、そのお陰っていうのが大きいんですけど、ありがたかったです。前日はほぼ寝ずに仕込みをして、なんとか当日を迎えて。もう終わったときの気持ちは、たまらなかったですね。
━━ずっと東京にいたら、きっと今の山田さんはないでしょうね。
山田:ないと思いますね。ずっと店長で、お店では一番上じゃないですか。だから、立場的には、みんな自分に従うわけですよ。僕はそういうのを気にするタイプではないですけど、そういう生活からガラッと変わって、自分の店を一からやれたというのはとても大きな財産です。
( ※ 1)バル街:スペインにあるバル(食堂とバーが一緒になったうような飲食店)の文化を取り入れ、西部地区にある飲食店で飲み歩きをするイベント。2004年に始まり、現在は春と秋に年2回開催されている。
山田:東京の仕事を辞めるまでの間にも、香生里さんとやりとりをしていて、「本当にカフェをやるのかな、俺?」って半信半疑ながらも、だんだんと「本当にできたらいいな」っていう気持ちになってきたんですよ。
だけど、東京とかでカフェをやるってなったら、やっぱり契約時点で半年~ 10 ヶ月っていうのが相場なんです。
━━その分の家賃を前払いするってことですか?
山田:そうです、そうです。補償金として。だから、すごく初期投資のお金がかかるんですよ。さらに、厨房機器やら備品やらで、個人店でも1千万円以上かかっちゃうっていうのがザラなんです。
その上、ここはもともと民家ですからね。改装にもお金がかかってくるわけです。そうやって、だんだん現実的なことを考えようになると、すごく難しいような気がしてきたんですよね。
━━「今すぐにはちょっと…」と。
山田:はい。そういう気持ちで移住してきたんですけど、函館に着いた日に大きな地震があったんですよ。震度5とかの。そのときは、「初日に地震が起きるなんて、幸先悪いなぁ」と思ってたんですけど、今考えると、あれが波乱万丈の始まりだったのかなって思います。
━━tomboloの香生里さんにインタビューをしたときに伺ったんですけど、ここにカフェを作ることになったときには、もう店名も決まってたし、ロゴも完成していたという話ですよね。あとは、実際にカフェをやる人さえ決まればオープンできるという状態だったと聞きましたが、店名やロゴが決められていたことに抵抗はなかったんですか? もっと自分のカラーを出したいというような気持ちは?
山田:香生里さんのインタビューを読むと「店名とかにこだわりがない」って思ってたらしいんですけど、決してそんなことはなくて、僕がなんでそのまま店をやることになったかというと、 Transistor CAFE って店名を聞いたときに、どういう気持ちでつけられた名前なのかがすぐにわかったんです。
━━店名の由来がすぐにわかった?
山田:はい。音響の歴史でいうと、トランジスタというのは真空管の次に出てきたものなんです。ここに住んでいたおじいちゃんが真空管アンプを使っていたのは、見学に来たときに知っていたので、 Transistor CAFE って名前には、「おじいちゃんが、次の世代に建物を引き継ぐ」という意味が込められてるんだろうってのがすぐにわかったんです。僕、音響の専門学校に行ってたんですよ。
━━なるほど! それですぐにピンときたんですね。
山田:はい。なので、店名にこだわりがなかったんじゃなくて、「めちゃくちゃいい名前だ!」と思ったんです。これ以上の店名はないなって。
━━面白いですねー。同じ話を違う角度から聞くというのは。
山田:まぁ、それを言葉にして伝えていなかったので、こだわりがない感じに見えたのかもしれませんが(笑)。
━━その後、実際に改装工事が始まったと思うんですけど、具体的にはどういう工程で進めていったんですか?
山田:最初は、知り合い同士だからといってなぁなぁになってしまわないように、しっかりと契約面の話をしました。
例えば、この建物には水道とかガスの設備がなかったんですよ。なので、どこからどこまでの工事が大家さん持ちで、どこが自分の負担なのかっていうのを明確にしました。それから、賃貸契約をして、解体作業が始まりました。最初はひとりだったんですけど。
━━ひとりで?
山田:もちろん専門家の人から「 ここは壊していく、ここは壊しちゃだめ」とかってアドバイスを受けながらですけど。とにかく、そのときに自分ができるのって、解体しかなかったんですよ。なので、日中は解体作業をして、家ではメニューを考えたりしてました。あとは、函館の街のことをよく知らなかったので、すごく散策した覚えがあります。
そういう暮らしをしているうちに、 tombolo さんや『箱バル不動産 』さんの協力で、いろんな人が手伝ってくれるようになったりして、まるまる1ヶ月で解体が終わったんです。それから、自分が持ってるお金では全然足りなかったので、資金集めを始めました。その頃に、内装を担当してくれたタカさんと出会ったんです。
━━以前、IN&OUTのインタビューにも登場してくれた谷藤崇司さんですね。函館にUターンをしてきて、内装業を営んでいる。
山田:そうです、そうです。タカさんが函館に帰ってきたのが、ちょうど僕がカフェを始めようと思っていたタイミングと一緒くらいだったんです。箱バル不動産の方がタカさんを紹介してくれて、ここのカフェの内装を担当してもらえることになったんですよ。
━━またも運命的な巡り合わせですね。
山田:そうですね。だけど、その頃はいろんなバランスが不安定になっていたというか、関わってくれる方が多くなっていって、全体的な統制が失われつつあったんですよね。
━━どういうことですか?
山田:んー。こういう言い方をすると、すごく中途半端な感じなんですけど、自分もこのカフェをどうするかっていう考えが固まってなかったんですよね。「こんなカフェをやりたい」って気持ちからスタートしていれば、その情熱で進んでいけたんでしょうけど、「ここでお店を始めることになった」というようなスタートだったので、「さて、どうしよう」みたいな感じの進み方だったんです。
それでいろんな人に携わってもらっている中で、今まで考えてたことをひっくり返すようなこともあったりして。僕もよくわかっていなくて、配慮が足りなかったところもあったんですけど … 。
━━なるほど。客観的に見るとカフェをやることが決まったところから、すべてがタイミングよくスムーズに進んでいるように見えましたけど、その真っ只中にいる本人からすると、次から次へと予期せぬことが起こっているというか、まるでジェットコースターに乗ってるような感覚なのかもしれないですね。
山田:そうですね(笑)。もう後には引けないって気持ちもありましたし。
━━ですよね。
山田:そもそもカフェのオープンは4月に行われるバル街( ※ 1)に合わせようっていうのが目標だったんです。箱バル不動産と共同で出店しようってことになっていて。
だけど、僕は資金調達が滞っていたし、内装のことも決まってなかったし、だけどオープン日は決まってるってことで、その頃はメンタル的にもかなり参っていて。
━━精神的に追い詰められて…。
山田:えぇ。なんか、いろんなことが上手くいかなくって、何のために函館に来たのかもわからなくなっていました。一時は、本当に辞めようかとも思ったんですよ、カフェをやるの。
助けてくれる人はたくさんいたんですけど、まだみんなとの関係も浅いですし、その中でも「とにかく急がなきゃいけない」って気持ちだけが日増しに強くなっていって。
━━気心知れた仲間がいるならまだしも、新天地でそういう状況に立たされるのは精神的に辛いですよね。
山田:そんな中でも、タカさんは毎日休みなく内装を進めてくれていて。僕も現場の手伝いはしてたんですけど、大工仕事に関してはド素人じゃないですか。タカさんの指示に従って作業していくんですけど、まぁ思うように進まないから、タカさんも歯がゆかったと思うんですよ。
━━はい、はい。
山田:タカさんは最初から、プロとして期限は守るって言ってくれていたので、頭の中にははっきりとタイムスケジュールがあったと思うんですけど、僕の作業スピードが追いつかないせいで工事に遅れが出ていたんです。そういう状況にありながら、本当に間に合わせたいはずの僕が「ちょっともう無理かも」みたいに思っていることを、口には出してないですけどタカさんも感じていたと思うんですよね。
━━そういう雰囲気って、口にしなくても伝わったりしますもんね。
山田:もう完全にキャパオーバーだったんです。それで、いよいよ追い詰められてきて、バル街がもうすぐだってなったときに、箱バル不動産のメンバーが、万が一間に合わなかったときの対応策ってのを、いくつか考えてくれたんです。
たぶん、箱バル不動産側も、いろんな人から「バル街で何するの?」って聞かれていたと思うんですよ。だけど、何も決まってないから宣伝もできないという状況で。たぶん、いろんな人がフラストレーションを感じていたと思います。
━━口には出さなくても歯がゆさはあったでしょうね。
山田:そんな中で、僕は内装をやりながら、ダメだったときのプランも考えながら、もうパンク状態で。本当にイヤになっちゃって、「どうしてもメニューを考えたい」って言って、一度現場から逃げたことがあったんです。
━━「現場から逃げた」というのは?
山田:やらなきゃいけないことがあるっていう言い訳を作って、現場を後にして、その間もいろんな人が手伝いに来てくれているにも関わらず、当のお店をやる僕本人は逃げたんです。何の役にも立ってないし、誰の役にも立ててない自分がすごくイヤになってしまって … 。
そのときに、ついにタカさんが口を開いたんですよ。「そんなんじゃダメだと思います。もっと勉強できるはずです」って。
━━あえて厳しい言葉を。
山田:タカさんは、限界まで我慢した上で言ったんだと思うんですよね。何歳も上の僕に、今までずっと我慢していたであろうことを。
僕はそれを聞いたときに、目が覚めたんです。自分は何をしてたんだろうって。要は、キャパオーバーを言い訳にして、逃げようとしたんですけど、それでもタカさんはストイックに、ずっと諦めずに仕事を続けていてくれたんですよね。だから、タカさんには「そんなこと言わせてしまってすいません」っていう気持ちでした。
━━依頼主だし、歳も離れているし、言い難いことではあったでしょうね。
山田:その言葉は、ちょっと悔しかったんですけど、でもそれがなかったら、あれ以上は進めてなかったかもしれないです。
疑問も感じていたし、言いたいことも誰にも言えなかったけど、タカさんは、その線を越えてきてくれたんですよね。だから、自分にとっては、今でも恩人のような、年は 10 歳以上離れてますけど友人のような、なんか不思議な存在なんですよね。だから今でも、内装を直したときには写メ撮ってタカさんに送ったり、あとはまた一緒に現場に入りたいって思ってるんですよ、実は。
━━すっかり師弟のような関係性ですね(笑)。
山田:そうなんです(笑)。毎日、本当に朝から晩まで一緒でしたから。
タカさんには、プロ意識ってのをまざまざと見せつけられた気がしました。当時は、まだ自分の仕事を見せられるフィールドが函館にはなかったんです。自分が自分の仕事を見せられるのって、お店ができてからだから、それまでの時間って何も自分を出せないというか。役立たずな自分ばっかりが見えてきちゃってたんですよ。
━━実力を発揮できる場がないっていうのも、やっぱり歯がゆいですよね。
山田:そういうのがあった分、お店ができるまでを支えてくれたタカさんとか箱バル不動産のみんなとかは、自分の中では今でも特別な存在です。
━━新天地に越してきて、そういう濃厚な人間関係を形成するのって難しいですよね。少なくとも時間がかかることじゃないですか。それが一気に濃縮された数ヶ月間だったんですね。
山田:そう思いますね。今考えると、面白いなって思えますけど。そのときは、本当に迷いながらの日々でした。
あと、こっちに来てすごく思ったのが、バランスなんですよね。
━━バランス?
山田:東京に比べると周りがすごく狭い街じゃないですか。だから、新参者でやってきて嫌われたらアウトかなって。この街の関係性とかシステムを知らないから、「人に嫌われたら生きていけないんじゃないかな」って。だから、自然と嫌われないようにしていた自分がいたような気がするんですよ。
━━人から嫌われないような振る舞い方をしていた。
山田:そうですね。嫌な印象を持たれないように。それがまた疲れを増幅させていたとも思います。言いたいことも言えなかったりするし。
━━角が立たないように、角が立たないようにと。
山田:本当にそうしてましたね。今でもそうなってる部分もあるかもしれないけど、以前よりはすごく自然です。その頃は、本当に人と人とのバランスっていうのを人一倍考えていましたね。
━━なるほど。それで、お店の方はバル街に間に合ったんですか?
山田:もう、間に合うわけがないと思ってたんですよ。周りからもそういう声がありましたし。だけど、最後はどうにか間に合ったんです。
━━おぉ!
山田:今でも忘れられないのは、保健所の検査がある前日とかに、タカさんと夜中に作業していて、全部が終わったわけですよ。そのときに2人で黙って店を見渡して、「これ見ながら酒飲めますよね」みたいな話をして(笑)。やりきったという瞬間が、すごく嬉しくて。あれは本当に忘れられないですね。
━━保健所の検査もドキドキですよね。お店が完成したのに、検査が通らなかったら営業できないわけですし。
山田:だから事前に何度も保健所に行って、現状を伝えて、あとは何が足りないかっていうのを聞きに行ってました。確実に審査を通過したかったから、何度も通ったんですよ。「また来た」みたいな顔で見られたこともありましたけどね(笑)。でも、本当に必死だったんです。
━━実際、オープン日となったバル街での反響はいかがでしたか?
山田:すごく盛況で、250人くらいのお客さんが来てくださって。箱バル不動産のメンバーは知り合いがたくさんいるので、そのお陰っていうのが大きいんですけど、ありがたかったです。前日はほぼ寝ずに仕込みをして、なんとか当日を迎えて。もう終わったときの気持ちは、たまらなかったですね。
━━ずっと東京にいたら、きっと今の山田さんはないでしょうね。
山田:ないと思いますね。ずっと店長で、お店では一番上じゃないですか。だから、立場的には、みんな自分に従うわけですよ。僕はそういうのを気にするタイプではないですけど、そういう生活からガラッと変わって、自分の店を一からやれたというのはとても大きな財産です。
( ※ 1)バル街:スペインにあるバル(食堂とバーが一緒になったうような飲食店)の文化を取り入れ、西部地区にある飲食店で飲み歩きをするイベント。2004年に始まり、現在は春と秋に年2回開催されている。
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