元プロ野球選手の王貞治氏が理事長を務める『世界少年野球推進財団』に所属し、世界に野球を広める活動をしている太田裕己さん。お父さんが気象庁に勤めていた関係で、函館、倶知安、江差、紋別と、幼少期から道内各地を転々とし、函館中部高校から札幌大学に進学しました。卒業後は札幌で養護学校の教員をしていた太田さんですが、25歳の時に公務員という〝安定した仕事〟を辞めて、東京へ。「給料よりも経験が大切だと思った」と話す太田さんに、財団職員という仕事や、数々の転校経験によって養われた性格、地元の友人との間に感じる感覚的なギャップなどについて伺いました。
取材・文章:阿部 光平、撮影:馬場 雄介、イラスト:阿部 麻美 公開日:2016年1月22日
井の中の野球少年、世界の広さを知る
━━現在の仕事から遡って大学生活のお話までを伺ってきましたが、今度は幼少期のことを教えてください。生まれたのはどちらですか?
太田:産まれたのは函館の古川町ですね。
━━当時のことで何か記憶に残っていることはあります?
太田:古川町には、3歳くらいまでしかいなかったので、生活のことはあまり覚えてないですね。ひとつだけ、ばあちゃんに怒られて、袋に入れられて、そのまま物置に閉じ込められたのは鮮烈に覚えてます(笑)。
━━袋詰めで物置(笑)。そういうインパクトある出来事って忘れないですよね。3歳以降は、どちらに?
太田:そのあとは倶知安ですね。父親が気象台に勤めてたので、引越しが多かったんです。倶知安には幼稚園を卒業するまでいて、小学校からは江差、4年生の時には紋別に引っ越しました。
━━紋別ってまた遠いですね! かなり目まぐるしい少年時代ですけど、野球に出会ったのは、どのタイミングだったんですか?
太田:江差小学校ですね。江差フェニックスっていうチームがあって、そこで野球を始めました。なんで始めたのかは覚えてないですけど。
━━小学校に上がって、野球も始めてってなると、4年生の時の転校は辛かったんじゃないですか?
太田:嫌でしたねー。転校先に行くのも緊張しました。毎回毎回。
ただ、新しい学校に行くと、その都度「今回はこういうキャラでいってみよう!」みたいなことをしてました(笑)。次はちょっとクールな感じでいってみようとか(笑)。でも、だいたい一週間くらいですると、素がバレてくるんですよね。そこから、「結局キャラを作っても意味がない」ってことを学びましたね(笑)。
あとは、転校が多かったおかげで、新しい環境に入っていくことに対しての抵抗はなくなりました。未だにそういう性格はあるかなぁ。そういう点では親に感謝してます。ただ、あちこち引っ越してると、小学校からの幼馴染とかがいないので、そういう面では寂しいなとも思いますけど。
━━僕も転校が多かったので、どちらの気持ちもわかります。幼馴染がいないのって寂しいですよね。江差から紋別に行っても野球は続けてたんですか?
太田:紋別での野球はけっこう輝かしかったですよ(笑)。一応、4番でキャプテンをやってて、全道大会にも2度行きました。どっちも1回戦負けでしたけど(笑)。
━━中学校も紋別ですか?
太田:中学校からは、また函館で、深堀中学校に通ってました。当時の深中は、歩くとミシミシいうような古い木造の校舎で、冬とかは、もう極寒でしたね(笑)。ヒーターとかなかったので、教室にはストーブがありました。薪だったかな?
━━僕が通ってた戸倉中もストーブありましたよ。さすがに薪ではなかったですけど(笑)。当時の深中野球部は強かったんですか?
太田:深中は先生が厳しくて、練習もすげぇキツかったですね。実力的には、道南大会まではいくけど、全道には届かないってくらいでした。
ただ、紋別ではキャプテンで4番だったけど、函館に来たら超足早い奴もいるし、肩強い奴もいるし、井の中の蛙だったんだなーってことを痛感しました。将来はプロ野球選手になりたいと思ってたけど、これはちょっと遠いなとも感じましたね(笑)。だけど、高校でも野球は続けてました。
━━高校はどちらに?
太田:野球がまずまず強かったので、とりあえず北高に行こうと思ってて、願書も出したんですよ。だけど、急に気が変わって、冬休みに学校まで願書を取りに行ったんです。で、先生に「やっぱり、中部にします!」って。「いやいや、やめとけ」って言われましたけどね(笑)。
━━北から中部だと、学力的には二段階くらい上がってますもんね(笑)
太田:そうそう(笑)。なんでそう思ったかっていうと、中部の野球が強くなってるというのを聞いてて。プロ野球選手は無理だと思ってたけど、甲子園には行きたかったので、野球が強い学校に行きたかったんです。それから、塾ですげえ勉強頑張って(笑)。
━━結果は実ったんですか?
太田:受かりましたねー(笑)。
━━おー!お見事(笑)。では、中高生の時は、とにかく野球中心の生活を送ってたわけですね。
太田:そうですねー。あとはよく海に行ってました。部活終わって、そのまま海行って、ユニフォームのまま泳ぐみたいな(笑)。
━━絵に描いたような青春ですねー(笑)。
太田:あと〝語る〟って流行らなかったですか? お菓子持って、海行って、「ちょっと語んねー?」みたいな(笑)。
━━あったあった! ありましたねー、〝語る〟って文化(笑)。
太田:何だったんですかね、アレ(笑)。そういうこともよくしてました。楽しかったですねー、海。
━━肝心の野球はいかがでしたか?
太田:中部は市内でも割と強い方で、一個上も、僕らの代も全道大会まではいったんですよ。まぁ、僕らの時は一回戦で札幌第一とやって、14対1とかでボロ負けでしたけど。
━━やはり遠いですねー、甲子園は。
太田:遠かったー(笑)。やっぱ私立は強いなと感じましたね。でも、全道大会に行けたのはすごく良い思い出です。
━━高校生って、かなり多感な時期だと思いますが、野球以外にはどんなことに興味関心がありましたか?
太田:中部に行って、衝撃的だったのが、とにかくもう自由なんですよ。私服だし、髪染めてもいいし、ピアスもOKだし、法律に反すること以外は大抵大丈夫みたいな感じで。中学まではボタンを変えただけで怒られるような生活だったので、そういう自由さは衝撃的でしたね。
それで、服とかに興味を持つようになっていったんです。それまではアメリカ屋とかで服を買ってたんですけど、五稜郭にあった『アメリカンシュガー』っていう古着屋さんに通うようになって。そこで、店長をしていたギシさんって人と出会ったのが、僕の人生のターニングポイントになりましたね。
━━具体的にはどのような影響を受けたんですか?
太田:なんだろ、まず置いてある服が面白かったってのがあるんですけど、それだけじゃなくて音楽のこととかもたくさん教えてもらって。それまでは、服にしても音楽にしても、「あいつはコッチ系だよね!」とか「ヒップホップ派、パンク派」って風にカテゴライズして物事を見てたんですけど、ギシさんは海外のアーティストの話をしてたかと思うと、「ミスチルいいよねー!」とか言ってみたりするし、こういう価値観もあるんだなと思わされました。
━━「どっちかが良ければ、反対はダメだ」って考え方ではなく、フラットな目線で物事を判断するという。
太田:そうですね。そういう価値観とか、考え方の部分で受けた影響は、かなり大きくて、未だに自分の根幹にもなっています。