元プロ野球選手の王貞治氏が理事長を務める『世界少年野球推進財団』に所属し、世界に野球を広める活動をしている太田裕己さん。お父さんが気象庁に勤めていた関係で、函館、倶知安、江差、紋別と、幼少期から道内各地を転々とし、函館中部高校から札幌大学に進学しました。卒業後は札幌で養護学校の教員をしていた太田さんですが、25歳の時に公務員という〝安定した仕事〟を辞めて、東京へ。「給料よりも経験が大切だと思った」と話す太田さんに、財団職員という仕事や、数々の転校経験によって養われた性格、地元の友人との間に感じる感覚的なギャップなどについて伺いました。
取材・文章:阿部 光平、撮影:馬場 雄介、イラスト:阿部 麻美 公開日:2016年1月22日
留学生への好意と共に芽生えた〝英語への興味関心〟
━━太田さんが世界少年野球推進財団に入った経緯を教えてください。
太田:もともとは小中高と野球少年だったんですよ。それで、たまたま大学生の時に札幌で世界少年野球大会があって、それにボランティアで参加したんです。オランダから来た子ども達の面倒をみるボランティアスタッフだったんですけど、それがもうすごく楽しくて!
その時は一回限りのボランティアってつもりだったんですけど、次の年の大会がプエルトリコ開催で、日本から子どもを連れて行くためのボランティアスタッフとして声をかけていただいて。まだ大学生だし、時間もあったので、すぐに返事をして。それで、一緒に連れて行ってもらえることになったんですよね。
そしたら次の年も、また次の年も呼んでもらえるようになって、結局5回くらいボランティアスタッフとして参加したのかな。それで、2009年に「スタッフ探してるんだけど、やる気ない?」という連絡をもらって、転職を決めたんです。
━━ボランティアをしているうちに信頼を得て、正式にスタッフとして迎え入れられてんですね。ちなみに、世界少年野球推進財団に入る前は、どんな仕事をしてたんですか?
太田:教員です。札幌養護学校ってとこの訪問部にいました。
━━訪問部って何ですか?
太田:札幌養護学校には、小学部、中学部、高等部、訪問部ってのがあって、訪問部は病院とか施設とか、自宅とかに行って授業をするんです。病気とか障害とか、いろんな事情で学校に来れない子どもに勉強を教える教員ですね。障害のある子たちとは、授業というより、一緒に遊ぶ中でいろいろなことを教えるって感じだったんですけど。
━━なるほど。その時は、何の授業を教えてたんでしょうか?
太田:5教科全部です。だけど、やっぱり時間が短いから、主要3教科が中心でしたが。大学が英語学科だったので、英語を教えるのはいいんですけど、数学とかは大変でしたねぇ。「全然わかんねー!」みたいな(笑)。だから、自分も毎日かなり勉強して、まず自分が理解するところから授業が始まるみたいな感じでした。
━━大学受験が終わったら、数学とか忘れちゃいますもんね(笑)。もともと、学生時代から教員志望だったんですか?
太田:一応、教員を目指しつつ、JICAとかの試験も受けてました。3回くらい受けてて、すべて最終選考で落ちましたけど(笑)。それで、大学の教授から「養護学校の先生ってのもあるけど、興味ある?」って話をもらって、やってみようかなと思ったんです。
━━それって、職種的には公務員ってことになるんですか?
太田:そうですね。給料も保障面とかも、普通の教員と同じです。
━━いわゆる〝安定した仕事〟を辞めて、興味のある野球の世界に飛び込んだと。そこの決断は、けっこうスパッと決められましたか?
太田:いやー、2ヶ月くらいは悩みましたね。教員の仕事も面白かったし、条件面でも給料は正直、ガクッと落ちる感じでしたから。
ただ、世界少年野球推進財団みたいな団体って、定期的に人を採用してるわけじゃなくて、足りなくなったら増やすっていう形式なんですよ。だから、これはチャンスだなと思って。それに声をかけてくれたのが、すごく尊敬できる方だったので、やってみようと。「給料よりも、経験の方が大事だろう!」って感じでしたね。
━━高校卒業後の進路として、札幌の大学を選んだ理由は何だったのでしょうか?
太田:まず最初に、英語を勉強したいってのがあって。英語学科がある大学を受けたんです。東京と札幌の大学を。だけど、ほぼ全滅で、受かったのが札幌大学だったっていうのが理由ですね(笑)。
━━場所にはあまりこだわりがなかったんですか?
太田:どこでもいいと思ってましたね。なんか、カッコつけた言い方ですけど「どこの大学に行くかなんて関係ねー! 環境がどうとかじゃなく、自分次第だろ!」って思ってたので。
まー、実際に大学入ってみて、やっぱり環境も大事だなとは思いましたけど。
━━そもそも、英語を勉強したいと思うようになったきっかけは何だったのでしょう?
太田:高校3年生の時に、オーストラリアから留学生が来てたんですよ。19歳とか、ちょっと年上の女の子で。その子、全然日本語が話せなかったんですけど、話してみたいなと思って。だけど、いざしゃべってみたら、英語が全然通じなくて…。そこから、英語をちゃんと勉強したいなと思うようになりました。
━━最初に彼女と話してみたいと思ったのは、言葉も文化も違う国に来て、友達もいない子を放ってはおけないという気持ちで? それとも英語を身に付けたくて?
太田:いや、んー。
━━単純に可愛かったとか?
太田:可愛かったっていうか、まー、そういうのもありましたね(笑)。
自分、けっこう影響されやすい人間で、いろんな価値観を知ったり、いろんなものを試してみるのが好きなんですよ。だから、留学生が来てるのに話さない手はないなと思って。だけど、いざ話してみたら、全然伝わらないし、「あー英語話せるよういなりたいな」って思ったんですよね。
それで苦手だった英語を一生懸命勉強したんですけど、彼女の日本語の上達レベルの方が遥かに上で、こっちがちょっと英語を話せるようになった頃には、彼女は「ちょっと部活に顔出してくる!」とか、そういうレベルになってて(笑)。「顔出してくる」って日本語使うのとか、すげえなって(笑)。
━━じゃあ、英語で話す必要がなくなっちゃったんですね(笑)。
太田:そうそうそう。それで、その子はオーストラリアに帰っちゃったんですけど、英語の勉強は続けてて。その頃は、空港とか、ホテルとか、いろんな人に会える職場で働きたいなとか思ってました。
━━それで、札幌大学の英語学科に進学したと。札幌での暮らしはいかがでした?
太田:服屋さんもたくさんあるし、音楽探しに行っても色々あるし、飲むところもいっぱいあるしって感じで楽しかったですね。もう、はじけようと思って、はじけてました(笑)。
ススキノの居酒屋さんでバイトして、夜はクラブで遊んだりして、普通の授業とかは行かないこともあったんですけど、英語だけはちゃんとやってましたね。3年生の時に1ヶ月だけアメリカのボストンに留学して、戻ってきてまたすぐ今度は1年間インディアナのボールステイト大学に留学してました。
━━本格的に英語を学んでたんですね。海外での生活はいかがでしたか?
太田:インディアナでは、たぶん今までの人生で一番勉強しました。とにかく大学の勉強についていくのに必死で、夜中の3時くらいまで大学の図書館にあることもありましたし。ちゃんと遊んでもいましたけど(笑)。
初海外はボストンだったんですけど、その時は何もかもが刺激的すぎましたね。車にしてもハンバーガーにしてもデカイし、建物も日本とは違うし、街の匂いまで違ってて。
今、仕事で外国の子たちを日本に招待したりしてるけど、きっとああいう気持ちなんだろうなとか思うと、たくさん思い出を作ってあげたいって気持ちになりますね。