人生を変える"ジャマイカン・スカ"との出会い
━━小さな村で生まれ、青森市内で青春時代を過ごした18歳の少女にとって、東京の街はどのように見えましたか?
蒲生:あまり戸惑いとかはなかったです。高校生の頃から、東京には何度か遊びに来ていたので「やっと東京に住めたなぁ」って感じでした。
━━キャンパスライフはいかがでしたか?
蒲生:楽しかったですね。1、2年は服飾の基礎を学ぶために、パターンをひいたり、デザインをしたり、縫製なんかを勉強してて。3、4年では、テキスタイルデザインコースに進み、自分が染めた糸で布を織ったり、羊の毛からウールの糸を作ったりという作業をしていました。
━━学校以外では、どんな生活をしていましたか?
蒲生:課題とバイトの毎日でしたね。バイトはコンビニとか居酒屋、下着屋とかでも働いてました。家が下北だったので、遊ぶのは専らその辺りで、古着屋とかライブハウスなんかによく行ってました。
━━服飾のように、専門的な分野の学校に行った人は、勉強したことを活かすような仕事に就くのが一般的かと思いますが、蒲生さんは大学卒業後、どんな道に進んだのでしょう?
蒲生:私は就職せずに、イギリスに行きました。留学とか、そういうのではなく、ただ行ってみたいから行ったという感じです。バイトで貯めたお金で、半年くらいロンドンで生活してましたね。ビザは半年間有効だったんですけど、観光目的なのに帰国便のチケットが半年後というので怪しまれて、入国審査で何時間も揉めた記憶があります。さらに追い討ちをかけるように、預けた荷物が到着しなくって…。初日から泣いた思い出があります(笑)。
━━それは幸先の悪いスタートでしたね(笑)。そもそも、どうしてイギリスに行こうと思ったのですか?
蒲生:当時は、とにかくパンクが好きだったんです。音楽もファッションも。だから、本場で、そういうカルチャーに触れたいなぁと思って。
ロンドンでは特に仕事もしてなかったんですが、大学の知り合いのツテで、ファッションスクールのショーの手伝いなんかをしていました。ギャラは出ないけど、ごはんは出るみたいな感じの。昼間はそういうところの手伝いをして、夜は相変わらずライブに行ったりして遊んでました。
━━イギリスに行って、一番良かったと思うことは何ですか?
蒲生:たくさんありますけど、やっぱり色々な音楽に出会えたことですかね。特に大きかったのは、ジャマイカン・スカ(※1)に出会ったこと。これがなければ、日本に帰ってからの仕事や、もしかすると旦那さんとも出会えてなかったかもしれません。
━━と、言いますと?
蒲生:あるイベントでジャマイカン・スカが流れていたんです。すごくカッコイイなと思って、色々とレコードを買おうと思ったんですけど、当時イギリスは物価が高かったので、買えずじまいでした。
なので、日本に帰ってから買うつもりだったんですけど、知識も全然なくて何を買ったらいいのかわからなかったんです。どうしようかなぁと思ってた時に、『Or Glory』(※2)というお店のことが思い浮かびました。「あそこに行けば、詳しい人がいるはずだ!」って。
━━『Or Glory』のことは、どうやって知ったのですか?
蒲生:もともとは客として行っていて、お店がやってる音楽イベントのことも知ってました。「アパレルだし、テイストもイギリスっぽいし、それでスカ好きな人がいるとなれば最高だ!」と思って、帰国してからすぐに面接に行ったんです。その後、ありがたいことに働かせてもらえることになりました。
━━初めての社会人経験ですね! 実際の業務としては、どのようなことをしていたのでしょう?
蒲生:最初はバイトだったんですけど、販売をしていました。その後、社員になって、帽子のデザインを担当することになったんです。
━━そこで遂に、大学で学んだ知識と技術が活かせたんですね。
蒲生:いや、大学では帽子に関することは何ひとつ学んでいなかったんですよ(笑)。帽子と服飾って、似ているようだけどジャンル的には全然違っていて、苦労ばかりでしたね。ただ、素材に関する勉強はしていたので、その辺はとても役に立ちました。それこそ、ようやく親にも胸を張って言えるというか。「大学出してくれてありがとう! 役立ってるよ!」みたいな(笑)。
━━お父さんとお母さんも、娘をわざわざ東京の大学に出した甲斐がありましたね(笑)。
蒲生:私は今、『Voodoo Hats』というハットのリメイク業をやっているんですが、これができているのは、服飾の大学に進ませてくれた親と、帽子のデザインを経験させてくれたOr Gloryのお陰です。