いつかは戻るつもりで離れた函館
家業を引き継ぐという選択に至るまでの8年間

蒲生寛之 さん(31)
 職業:不動産業
出身地:函館
現住所:函館
 函館→オーストラリア→東京→函館
 

 
 
 20歳で函館を出て、ワーキングホリデービザでオーストラリアへ。その後、6年半の東京生活を経て、函館に戻ってきたのが29歳の時。現在、家業である不動産会社に勤務し、地元で妻と娘の3人暮らしをする蒲生さん。函館、オーストラリア、東京と3つの地域に移り住みながら歩んできたこれまでの人生と、地元に根を下ろして暮らすと決めた今後の人生プランについて、お話を伺いました。

 
取材・文章:阿部 光平、撮影:妹尾 佳、イラスト:阿部 麻美 公開日:2015年8月18日

 
 

 
 
 
 
 
 

函館からオーストラリア、そして東京へ

 
 

 
━━函館東高校は、いわゆる進学校ですが、卒業後はどのような道へ進んだのでしょうか?
蒲生:高校生の時にやってたバンドのメンバーは、みんな自分よりひとつ上だったのですが、メンバーの一人が函館の大学を辞めて札幌に行きたいということで解散になりました。僕も高校3年生になって進路を考える時期だったんですけど、「パンクロック=自立」とか「パンクロック=NO FUTURE」みたいに思ってて、大学へ行くことはなんだかカッコ悪いように思ってました(笑)。今は、全然そんなこと思っていませんけど。
それで親には進学せず、バイトしながらバンドすると伝えたんです。幸いなことに母親はすんなり認めてくれました。「自分の人生なんだから、自分で責任とてると思うならやりなさい。好きなように生きればいい」と。父親は「別に否定はしないけど、いつまでそんな生活を続けるつもりだ?」と渋い顔をしてましたね。「そんなことわかんないよ。やりたいと思う限りやり続ける」とか言ったのかな。最終的には、自分の意思を尊重してもらえました。
 
━━実際にはどんな生活を送っていましたか?
蒲生:新しいバンドをやりながら、朝はスーパーの品出し、夜は五稜郭のしゃぶしゃぶ屋でバイトをしてました。でも、始めて2年くらいでメンバー間の気持ちのズレみたいなのが出てきて、結局は解散に至りました。
ちょうどその頃、10代の時に出会った函館のパンクシーンの人たちが街を出て行くようになったんです。札幌や東京でバンドをするという人もいれば、バンドを辞めて就職するという人もいました。
10代の頃って、なんとなく「みんなずっとここにいるだろう」って思いがちじゃないですか。当時はローカルでやっていくことがかっこいいとも思ってたので。ただ、みんながいなくなるってなった時に、「自分は頑なに、ここで生活していて楽しいのか?」「本当は無理をしているんじゃないか?」というような自問自答を繰り返すようになりました。もし、自分で自分のことを函館に縛り付けているような部分があるのなら、それは良くないなと思って。それで、バンドを解散するタイミングで自分も函館を出ようと決めました。
 
━━その時には、函館を出て、どこで何をしようという明確なヴィジョンを持っていたのでしょうか?
蒲生:正直、函館を出るということが先行していて、明確な目標とかはなかったんです。行き先を決めたのも、ワーキングホリデーに行くことになった友人の影響でしたね。バンドばかりやってたので、そんな制度があることなんて知らなくて、「外国で暮らすって、すげぇ楽しそうじゃん!」というノリでした。単純に好奇心のみというか。
 
━━函館から一歩も出ずに、バンドばかりしていた人間が、いきなりオーストラリアへ行くというのはかなりの冒険ですよね。実際に行ってみた感想はどうでしたか?
蒲生:当時、僕は20歳くらいだったんですけど、まず札幌に出て、次に東京に出てって感じだと外国には一生たどり着かないなと思ってて。なので、勢いで行ってしまおうと。若さゆえの勢いですね(笑)。
行き先はシドニーに行ったんですけど、最初の3、4ヶ月は語学学校に通って、シェアハウスで生活してました。あとは、食料品をレストランに配達するバイトだったり、畑でネギを取る仕事とかをしてましたね。

 
 
 

━━オーストラリアでバンドをするつもりはなかったんですか?
蒲生:やる気満々で行ったんですけど、練習スタジオがなくて。日本ってスタジオで練習するのが当たり前なんですけど、聞いた話によるとオーストラリアってみんなガレージとかで練習するらしいんですよね。単に僕が見つけられなかっただけなのかもしれないんですけど。でも、オーストラリアで趣味の合う友達と出会って、帰国したらバンドしようぜという話になったんです。それで、帰国後は東京に行くことにしました。
 
━━相手は東京在住の人だったんですか?
蒲生:神奈川だったんですけど、首都圏のことを何も知らない田舎者の感覚としては神奈川も東京も同じ街くらいに思ってたので(笑)。とりあえず東京にいけばいいかって感じでした。
 
━━悪い意味でオーストラリア流のゆるさが染み付いてましたね(笑)。実際に住み始めた東京の街は、蒲生さんの目にどう映りましたか?
蒲生:函館とは、若い人の数が全然違うなと思いました。音楽でもファッションでも、かっこいいなと思う人とか場所にあふれているなぁと。
あと、函館にいた時は、自分は音楽の好みや、趣味の面で少数派なんだろうと思っていたんですけど、東京に出てみたら自分と同じような趣味や感覚を持っている人はゴロゴロいて、そんなのは幻想だったことに気づかされました。それが楽しくもあり、自分は特別ではなかったという寂しさもありましたね。
 
━━地方のコミュニティとは絶対数が違いますからね。東京でのバンド活動は充実していましたか?
蒲生:そうですね。派遣社員や配達ドライバーなどの仕事をしながら、バンドメインの生活を送っていました。別に東京でも「一発当ててやろう!」といった意気込みがあったわけではなく、ひたすら自分がカッコイイと思う音楽を追求していた感じですね。
もちろん、自分たちがやりたいことをやるだけで、誰もライブに来なくてもいいとは思っていたわけではなく、人に見てもらって、共感してもらいたいという気持ちはあったので、自主企画や告知なども積極的にやってました。

 
 

 

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