全校生徒27人の学校から新体操の最高峰へ!


━━先ほど「新体操しかやってこなかった」というお話がありましたが、高堰さんはどのような少年時代を過ごされていたのでしょう?
高堰:生まれたのは、北斗市の中野という場所です。大野と上磯の間ぐらいですね。沖川小学校という、全校生徒が27人しかいない田舎の学校に通ってました。

━━その頃のことで、特に記憶に残っていることってあります?
高堰:動物とか虫がめっちゃ好きだったんで、家でいろんなものを飼ってましたね。カラスとか。

━━カラスを家で飼ってたんですか?
高堰:飼ってましたね。母親が、「くろこ」とか「かーこ」とかセンスのない名前つけて(笑)。田舎だから、そういう情報がすぐに出回って、近所の人が拾ってきたカラスを家に持ってきたりするんですよ。「こいつも飼いなよ!」って(笑)。
中学生になっても、トンビを捕まえたり、釣りに行ったりと、外で遊ぶことが多かったですね。

━━トンビを捕まえるって(笑)。また、大胆な遊びですね。体操はいつ頃から始められたんですか?
高堰:幼稚園の年長の時に、器械体操を始めたのが最初です。なんで始めたのかは覚えていないんですけど、中学2年まではずっと続けていました。

━━その時に、一度辞めてしまったんですか?
高堰:そうですね。だけど、そのことを担任の先生が気にかけてくれてて。その先生は、新体操で有名な恵庭南高校出身の人だったんですよ。当時、道内で新体操部がある高校は2つくらいしかなかったんですけど、そこに行ってみないかって声をかけてくれて。「知らない競技だけど、やってみよう」って気持ちで、行くことにしたんです。

━━基本的な質問で申し訳ないんですけど、器械体操と新体操って全然別の競技なんですか?
高堰:器械体操っていうのは、つり輪とか平行棒とかを使う競技で、新体操ってのは、音楽に合わせてチームで動きを合わせたり、タンブリングといって、床やマットの上で跳んだり回転する演目で点数を競う競技なんです。共通点もあるけど、競技としては別なんですよね。

━━なるほど。では、気持ちとしては新しい競技に挑戦するという感覚だったわけですね。競技とは別に、恵庭の高校に行くということは親元を離れるということになるかと思いますが、その辺りに不安はありませんでしたか?
高堰:寮に入らなきゃいけなかったんですけど、実家にいると親があれこれとうるさかったので、寮生活もいいかなって思ってました(笑)。最初の2、3ヶ月くらいは寂しさもありましたけど、あとはもうやりたいことただやるという生活でしたね。



━━高校時代、新体操の成績は、どれくらいだったんですか?
高堰:そんなに良くなくて、全国で8番目くらいですね。

━━その後は、大学に進学したということですが、もっと上のレベルで自分を試したいという想いがあったのでしょうか?
高堰:当時からタンブリングが得意で、高校生の時に大学生レベルの難度の技ができちゃってたんですよ。だから、大学でもやっていけるかなと思って。一応、新体操の名門といわれている京都の花園大学に行くことにしました。

━━関西と北海道って、文化がかなり違うじゃないですか。生活面で大変だったことはありましたか?
高堰:いや、そんなになかったです。関西の人は面白いし。人間関係とかで苦労したことって、あんまりないですね。

━━その辺は、やっぱり体育会の気質なんでしょうかね。大学での競技生活はいかがでしたか?
高堰:大学は、レベルが高い人たちばかりでしたねぇ。全然ダメでした。2年生の時になんとかメンバーには入れたんですけど。

━━だけど、最終的には全国制覇を果たしたわけですよね?
高堰:そうですね。最後は4年生が僕しかいなくて、キャプテンだったんですけど、その時にようやく優勝することができました。

━━その後、高堰さんはバイトを掛け持ちながら生活していたとのことですが、新体操をずっとやってた人達って、どういう道に進む人が多いんですか?
高堰:新体操の経験を活かすとすれば、教室で教えたりするくらいしかないですね。あとは、普通に就職したりとか。

━━プレーヤーとして新体操を続けていく人はいないんですか? 例えばオリンピックを目指すとか?
高堰:新体操ってオリンピックがないんですよ。日本でしか行われていない競技なんです。

━━ってことは、日本一っていうのが最高峰ってことですか?
高堰:そうなんです。だから、それ以上の目標はないんですよ。

━━そうなんですね。ちなみに、高堰さんは、新体操を教えるという仕事には興味がなかったんですか?
高堰:新体操を教えるってのは、100パーセントできることじゃないですか。それよりも、バイトとか、やったことがないことをやりたいって気持ちの方が強かったですね。





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