富樫雅行
さん(36)
職業:建築家
出身地:愛媛
現住所:東京
愛媛→千葉→旭川→サロマ→函館
函館で建築家として独立し、新築やリノベーション物件を手がけている富樫雅行さん。生まれ育った街を離れて、函館の西部地区にやってきた背景には、街並みが好きだというのと同時に、それが失われつつあるという危機感があったといいます。
景観を守りつつ、街をアップデートしていきたいという富樫さんに、家を建てるだけでなく、そこに住む人の生活を土台から考えるという建築理念や、建物が持つ〝外との関係を構築する〟という役割、『箱バル不動産』メンバーのひとりとして考える西部地区の未来などについて伺いました。
取材・文章:阿部 光平、撮影:馬場 雄介、イラスト:阿部 麻美 公開日:2016年12月28日
建築家への想いを奮い立たせた良きライバルの存在
━━富樫さんは、愛媛県の生まれということでしたが、何歳まで暮らしていたのでしょうか?
富樫:うちは、父が新潟で母が山形の人なんですけど、父の仕事の関係で愛媛県の新居浜市というところにいたんです。そこで生まれて、幼稚園にあがる頃に千葉県へ引っ越しました。
━━愛媛にいた頃の記憶ってありますか?
富樫:新居浜市って工業地帯なんですけど、ドブ川みたいな汚い川で遊んでた記憶がありますね(笑)。大人になってから、1回だけ行ったことがあるんですけど、ほとんど知らない街に来たみたいな感覚でした。何も覚えてなくて。
千葉では姉ケ崎や五井ってところに住んでいて、小学校から高校までは、何も考えずにサッカーをしてましたね(笑)。
━━かなり真剣にやってたんですか? 将来的にはプロになりたかったとか?
富樫:そういう気持ちもありましたけど、ちょうど J リーグが発足してジェフ市原ができた頃だったので、高校生のときにジェフユースから降りてきた人にポジションを奪われた時点で諦めましたね。
それからは、家計が苦しかったのもあって、バイトをして学費も自分で払っていました。高校3年生のときは、もうバイト三昧でしたね。
高校が東海大付属だったので、大学へはエスカレーター式に進めるんですけど、湘南、代々木、旭川っていう選択肢があって、ほとんどは湘南校舎に行くんですよ。だけど、僕は人の真似というか、みんなと一緒の道を行くのが嫌いなタイプだったので、旭川校舎へ行くことにしたんです。
━━何か明確な目的を持って旭川へ行こうと思ったわけではなく、みんなと違う道を進みたいというのが、進路の決め手だったんですか?
富樫:みんなと違う方面に行きたいって気持ちが最初にあって、当時は自分が何をやりたいかというのは固まってなかったですね。カリスマ美容師が流行ってたから、美容師になろうとか考えてた気がします(笑)。
結果的には、建築学科に行ったんですけど、それは小学校2年の担任の先生が、「あなたは線を引くのが上手だから、設計士になりなさい」って言ってくれたのが、ずっと残ってたんですよね。絵を描くのは下手だったんですけど、ただ真っ直ぐ線を引くのだけは上手かったらしくて。その言葉の影響があったんだと思います。
━━旭川での生活はいかがでしたか? 環境的にも、文化的にも、千葉とはかなり差があったと思うんですけど。
富樫:高校の友達からは、「駅を降りたら牛がいる」っていう噂を聞いていたんですけど、思いのほか都会でビックリしました(笑)。千葉の市原なんかよりもずっと都会だなと思って、逆に恐縮したくらいです。
━━逆に恐縮(笑)。キャンパスライフは充実していましたか?
富樫:いやぁ、1、2年のときはダメでしたね。1年生のときに、いきなり友達の車をぶつけてしまって、借金を背負ったんですよ(笑)。アイスバーンで滑って。修理代で 50 ~ 60 万みたいな(笑)。
だから、熱心に勉強するってよりは、単位を取ることで精一杯で。日中は学校行って、夜は居酒屋でバイトをするという、けっこうハードなキャンパスライフでした。
━━18歳ってことは、免許とりたてですもんね。それで、雪道走るのはけっこう危ないですよね。
富樫:調子にのってスピード出しちゃったんですよね。
それで、3年生になると、留学する友達とかも出てきて、「えっ、そんな人もいるの?」って。取り残された感覚になってきたんですよ。そこから、「このままじゃヤバイな」ってことで真面目に取り組みはじめました。1、2年は失った感じがあったんですけど、3、4年は楽しかったですね。
━━結局、大学の4年間で、自分は建築でやっていこうという意思が固まったわけですね。
富樫:そうですね。ヨーロッパに留学していた、僕のライバルみたいな友達の影響が大きかったんですけど。彼は、 1000 年に一度の天才とか言われていて、同じゼミだったんですよ。留学から帰ってきた後は東京の事務所に行っていて、その影響もあって僕も東京の設計事務所にインターンで勉強しに行ったんです。
だけど、僕は「東京では絶対に就職したくないな」と思って戻ってきました。
━━どうして東京には就職したくないと思ったんですか?
富樫:毎日帰りは終電だし、みんな疲れてるし、この街やばいなと思って。ある時ビル群が墓標に見えてきたんですよ。こりゃみんな死ぬわって ( 笑 ) 。
そこで「やっぱり北海道は素晴らしいな」と改めて思ったので、僕は北海道でやっていこうと決めました。北海道からチャレンジしてやろうというような気持ちで。
━━東京の実情を体感したことで、逆に北海道でやっていこうという気持ちになったわけですね。
富樫:そうですね。北海道の暮らしの方が人間らしいなって。自然もあるし、楽しいし。東京はちょっと人の住むところじゃないなみたいな気がしていました。
僕のライバルだった友達は、卒業後もまたヨーロッパに留学して、 24 歳くらいのときに国際コンクールで勝って、今では雑誌の表紙を飾ったり、 NHK の番組とかにも出てるんですよ。ザハが勝った、国立競技場のファイナリストにも残ってたりしていて。地方の地域で密着しながらやってる僕とは、対局にある人なんですよね。建築家を目指すのにあたっては、大学の先生よりも彼からの影響が一番大きかったなと思っています。
富樫:うちは、父が新潟で母が山形の人なんですけど、父の仕事の関係で愛媛県の新居浜市というところにいたんです。そこで生まれて、幼稚園にあがる頃に千葉県へ引っ越しました。
━━愛媛にいた頃の記憶ってありますか?
富樫:新居浜市って工業地帯なんですけど、ドブ川みたいな汚い川で遊んでた記憶がありますね(笑)。大人になってから、1回だけ行ったことがあるんですけど、ほとんど知らない街に来たみたいな感覚でした。何も覚えてなくて。
千葉では姉ケ崎や五井ってところに住んでいて、小学校から高校までは、何も考えずにサッカーをしてましたね(笑)。
━━かなり真剣にやってたんですか? 将来的にはプロになりたかったとか?
富樫:そういう気持ちもありましたけど、ちょうど J リーグが発足してジェフ市原ができた頃だったので、高校生のときにジェフユースから降りてきた人にポジションを奪われた時点で諦めましたね。
それからは、家計が苦しかったのもあって、バイトをして学費も自分で払っていました。高校3年生のときは、もうバイト三昧でしたね。
高校が東海大付属だったので、大学へはエスカレーター式に進めるんですけど、湘南、代々木、旭川っていう選択肢があって、ほとんどは湘南校舎に行くんですよ。だけど、僕は人の真似というか、みんなと一緒の道を行くのが嫌いなタイプだったので、旭川校舎へ行くことにしたんです。
━━何か明確な目的を持って旭川へ行こうと思ったわけではなく、みんなと違う道を進みたいというのが、進路の決め手だったんですか?
富樫:みんなと違う方面に行きたいって気持ちが最初にあって、当時は自分が何をやりたいかというのは固まってなかったですね。カリスマ美容師が流行ってたから、美容師になろうとか考えてた気がします(笑)。
結果的には、建築学科に行ったんですけど、それは小学校2年の担任の先生が、「あなたは線を引くのが上手だから、設計士になりなさい」って言ってくれたのが、ずっと残ってたんですよね。絵を描くのは下手だったんですけど、ただ真っ直ぐ線を引くのだけは上手かったらしくて。その言葉の影響があったんだと思います。
━━旭川での生活はいかがでしたか? 環境的にも、文化的にも、千葉とはかなり差があったと思うんですけど。
富樫:高校の友達からは、「駅を降りたら牛がいる」っていう噂を聞いていたんですけど、思いのほか都会でビックリしました(笑)。千葉の市原なんかよりもずっと都会だなと思って、逆に恐縮したくらいです。
━━逆に恐縮(笑)。キャンパスライフは充実していましたか?
富樫:いやぁ、1、2年のときはダメでしたね。1年生のときに、いきなり友達の車をぶつけてしまって、借金を背負ったんですよ(笑)。アイスバーンで滑って。修理代で 50 ~ 60 万みたいな(笑)。
だから、熱心に勉強するってよりは、単位を取ることで精一杯で。日中は学校行って、夜は居酒屋でバイトをするという、けっこうハードなキャンパスライフでした。
━━18歳ってことは、免許とりたてですもんね。それで、雪道走るのはけっこう危ないですよね。
富樫:調子にのってスピード出しちゃったんですよね。
それで、3年生になると、留学する友達とかも出てきて、「えっ、そんな人もいるの?」って。取り残された感覚になってきたんですよ。そこから、「このままじゃヤバイな」ってことで真面目に取り組みはじめました。1、2年は失った感じがあったんですけど、3、4年は楽しかったですね。
━━結局、大学の4年間で、自分は建築でやっていこうという意思が固まったわけですね。
富樫:そうですね。ヨーロッパに留学していた、僕のライバルみたいな友達の影響が大きかったんですけど。彼は、 1000 年に一度の天才とか言われていて、同じゼミだったんですよ。留学から帰ってきた後は東京の事務所に行っていて、その影響もあって僕も東京の設計事務所にインターンで勉強しに行ったんです。
だけど、僕は「東京では絶対に就職したくないな」と思って戻ってきました。
━━どうして東京には就職したくないと思ったんですか?
富樫:毎日帰りは終電だし、みんな疲れてるし、この街やばいなと思って。ある時ビル群が墓標に見えてきたんですよ。こりゃみんな死ぬわって ( 笑 ) 。
そこで「やっぱり北海道は素晴らしいな」と改めて思ったので、僕は北海道でやっていこうと決めました。北海道からチャレンジしてやろうというような気持ちで。
━━東京の実情を体感したことで、逆に北海道でやっていこうという気持ちになったわけですね。
富樫:そうですね。北海道の暮らしの方が人間らしいなって。自然もあるし、楽しいし。東京はちょっと人の住むところじゃないなみたいな気がしていました。
僕のライバルだった友達は、卒業後もまたヨーロッパに留学して、 24 歳くらいのときに国際コンクールで勝って、今では雑誌の表紙を飾ったり、 NHK の番組とかにも出てるんですよ。ザハが勝った、国立競技場のファイナリストにも残ってたりしていて。地方の地域で密着しながらやってる僕とは、対局にある人なんですよね。建築家を目指すのにあたっては、大学の先生よりも彼からの影響が一番大きかったなと思っています。
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