漫画家という夢を隠し続けた青春時代
17歳でデビューしてからの苦悩と決意

敦森蘭 さん(29)
 職業:漫画家
出身地:函館
現住所:東京
 函館→東京

 
 
〝恥ずかしさやプライドが邪魔して、自分の夢を素直に語れない〟。そんな経験、誰もが少なからず身に覚えがあるのではないでしょうか。他人の目が過度に気になる思春期ならば尚のことです。幼い頃から漫画が好きで、将来は漫画家になりたいと思っていた敦森蘭さんも、当時は自分の夢を他人に語ることができなかったと言います。17歳で漫画家デビューし、紆余曲折を経ながらも、今は真っ直ぐ漫画に打ち込む彼女に、これまでの葛藤や今後の夢を語っていただきました。


 

取材・文章・撮影:阿部 光平、イラスト:阿部 麻美 公開日:2015年7月15日

 
 

 
 
 
 
  

デビュー後に待ち受けていた苦難の道
 

━━では、高校卒業後は大学や専門学校へ進学したんですか?
敦森:いや、進学はせずに家で漫画を描いてました。デビュー作が雑誌に掲載されてからは、担当編集者の方が付いてくれて、読み切り作品を作り続けていましたね。

━━本格的にプロの道を目指すことになったわけですね。実際に作品を作る時というのは、どのような行程で進めていくのでしょう?
敦森:まずはネームと呼ばれるコマ割りや、全体の構成を担当さんに見せて、「ここを直しましょう」みたいな修正を加え、OKがでればペン入れをして仕上げるといった流れです。それを編集企画会議に出してもらって、作品を掲載するかどうかを審議する感じですね。

━━そうやって雑誌掲載や連載を勝ち取るわけですね。デビュー後の道のりは順調でしたか?
敦森:厳しい世界だとはわかっていましたが、想像以上に厳しかったです。デビューしてから2、3作品は雑誌に掲載されたんですけど、漫画界にも不況の波が押し寄せてきて、業界全体がだんだん厳しくなってきたんですよ。私自身も、ずっとネームをボツにされる時期が続いて、だんだん掲載もされなくなっていきました。
それが、ちょうど19歳くらいの時で、就職も進学もせず実家で漫画を書いている生活だったので、徐々に親との関係もギクシャクしてきて…。しかも、まだ恥ずかしいという気持ちが抜けきれていなくて、親が部屋に入ってきそうになったら原稿を隠すみたいな感じだったんですよ。親からしたら、私は何もやってないみたいな感じに見えるから、たびたび「就職しなさい」って言われるようになっていました。

━━好きなことをしていく上で、親の理解を得るというのは大きな関門ですもんね。
敦森:そうですね。当時は自分でも焦ってて、漫画が描けないような時期もありました。それで、逃げ道を探すように美大への進学を考えるようになったんです。もちろん最終的な目標はプロの漫画家なんですけど、まずはこの現状を打破しなければという想いがあって。
進学に関しては、親も賛同してくれました。ただ、今まで散々甘えきってきたので、学費は自分で稼ごうと思って、一度函館で就職したんです。そこで2年ほどお金を貯めて、教育ローンを組み、まずは東京の美大予備校に行きました。21歳の時ですね。

━━東京まで行かずとも、札幌や仙台にも美大予備校はあったと思いますが、なぜ東京という選択になったのですか?
敦森:行きたい学校がどれも東京の大学だったんです。場所的にも、レベル的にも東京の予備校がいいだろうということで。

━━初めての一人暮らしは楽しかったですか?
敦森:いやぁ、全然楽しくなかったですね。もう寂しくて寂しくて(笑)。学校にもあまり馴染めず、仲良くなった友達もほとんどいませんでした。だから、もう毎日ひたすら勉強して、家に帰ったら一人で孤独と闘うみたいな(笑)。函館に帰りたいと思うくらい辛かったです。辛すぎて、勉強も身に入らないという最悪な負のスパイラルでした(笑)。

━━予備校だと、その先に受験が待っているというプレッシャーもありますからね。息抜きするにも気がひけるというか。
敦森:まさにそんな感じでした。それで1年後に受験したんですけど、見事に落ちて。浪人するお金もなかったので、志望してたのとは別の美術大学に通うことにしたんです。

━━では、そこで4年間ガッチリ美術を学んだと。
敦森:いや、そこは2年で中退しました。理由はいくつかあるんですけど、まず面白い人がいなかったんですね。それと、その頃、著しく体調が悪くて、ひどい時には学校にも行けないくらいで。半分は止むを得ず辞めたという感じです。

━━なるほど。東京にやってきた目的は進学でしたが、その学校を中退した後は、どういう道を選んだのでしょう?
敦森:やはり漫画だけは捨てきれなくて。以前お世話になっていた出版社に、原稿を持って行きました。そのときには、前に担当してくれていた方は移動になっていたんですけど、新しい編集者の方に引き継いでもらえることになり、そのまま漫画を描き始めました。

━━デビューという実績があったから、その辺りはスムーズに再開できたわけですね。
敦森:そうですね。ただやはり担当編集者との相性というのがあって、作品のテイストとして合う、合わないというのがあるんですよ。いくら自分が良いと思っても担当に受け入れられなければ企画会議にも進めないし、かといって担当が好きそうなテイストに寄せたとしても会議でも受け入れられるとは限らないので。そんな感じで、そこでもなかなか結果が出なかったんです。
しかも、当時の編集部には、作家が他の出版社に行くのを良しとしないような雰囲気があったので、合わないからといって外に出ていくわけにもいきませんでした。横の繋がりも強い業界なので、下手に出ていっても生き残れないかもという不安もあって。

━━頑張っても結果が出ない。かといって、新天地を求めて外に飛び出したところで、この業界では生きていけないかもしれないと。
敦森:身動きがとれない苦しい状況ですね。
だけど、自分を殺してまで漫画を描き続けるのも嫌だったので、離れる決心をしました。ちょうどその頃、浅野いにお(※7)先生のアシスタントをしていて、そこの先輩にあたる方が「どこでもいいから早く出しなよ」と背中を押してくれたんです。そこで、試しに『モーニング(※8)』が主宰する『MANGA OPEN』という賞に、作品を応募してみたところ、編集部の方から「担当になりたいです」という連絡が来て。次のMANGA OPENに出すために作った40ページの作品で、奨励賞を受賞しました。

━━おぉ!シンデレラストーリー再びですね!
敦森:そんなに大袈裟なものではないですが、少女漫画を離れて青年誌にシフトチェンジしたところだったのでとても嬉しかったです。今は浅野先生と斉藤倫(※9)先生のアシスタントをしながら、青年誌での連載に繋がるための作品作りに取り組んでいます。

 
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