幼稚園から中学校まで附属に通い、本人曰く「ガチガチの型の中で育った」という坂本沙也加さん。高校進学を機に〝自由〟を強く意識するようになり、親の期待と自分の希望の間で激しく揺れ動いたといいます。そんな彼女が選んだのは、幼少期からの夢に突き進むという道でした。浪人してまで大学進学にこだわり、今は東京の病院で念願だった看護師として活躍する坂本さん。函館に対する愛を胸に秘めつつ、今は海外で働くという目標に向かって邁進する彼女に、青春時代の〝苦悩〟と、それを乗り越えたからこそ得られた〝自由〟について語っていただきました。
取材・文章:阿部 光平、撮影:馬場 雄介、イラスト:阿部 麻美 公開日:2015年9月4日
親の期待と自分の人生の間で揺れ動いた18歳
━━高校はどちらに進みましたか?
坂本:函館東高校です。卒業する時には、北高と合併して市立函館高校になってましたけど。
━━東高校を選んだ決め手は何だったのでしょう?
坂本:学力ですね! 附属中って各学年の生徒が80人で、上位層の15人くらいは東京の高校や札幌南高校とかに行くんですよ。その次の層はラサールとかで、毎年40人くらい。あとは遺愛の特進とか中部高校とかって感じで。「東」って言ったら笑われたのを憶えてます(笑)。でも、私の学力的には、どうにか東に行くがやっとでした。
あとは3歳から15歳まで附属で、ずっと同じ人たちと一緒だったので、ちょっと離れたいなって気持ちもありましたね。中部に行ったらなんとなく一緒だし、遺愛とかも代わり映えしなそうだなぁと。
━━実際に東高校へ通ってみた感想はどうでしたか?
坂本:本当にもう〝自由〟って感じで! すごく楽しかったです! 学校の帰りに友達と遊ぶっていうのがすごく楽しくて!
━━そっか! 小学校も中学校も附属だから、学校帰りに遊べなかったんですもんね。15歳にして初めて下校中に遊んだと! それはさぞかし楽しかったでしょうね。当時は何をして遊んでましたか?
坂本:普通にコンビニに寄るとか(笑)。それだけでも、すごく楽しかったんです。しかも、東高って私服じゃないですか。だからみんな個性に溢れていて、「こんなに型にはまってなくていいんだ!」って新鮮な気持ちでした。それまでがガチガチの型にはまっていたので余計に(笑)。
━━確かに自由な校風ですよね。部活にも入ってましたか?
坂本:引き続きバスケットボール部のマネージャーをしてました。初めて人に認められたのが、中学のバスケ部のマネージャーだったので、マネージャー業が私のアイデンティティーのひとつだったんです。なぜか高校でも、私が附属でマネージャーやってたことが知られていて、先輩に誘われるまま「すぐ入ります!」って感じでした。押しに弱いんです(笑)。
━━ほんと、マネージャー業に出会えてよかったですね(笑)。その他には、何か印象に残っているエピソードなどありますか?
坂本:学校って〝派手グループ〟と〝地味グループ〟みたいなのがあるじゃないですか。私は中学の頃からずっと地味グループに属してたんですけど、高校2、3年くらいで突如クラスの派手グループからお呼びがかかって(笑)! 気がついたら、可愛い子しかいないチアリーディング部の仲間に入れてもらってたんです。そこで、ようやく煌びやかな世界に飛び込みました(笑)。
━━お姉ちゃんに憧れること、17年! ついに煌びやかな世界に足を踏み入れましたか!
坂本:念願叶いました(笑)。チア部の子が派手グループの男の子と付き合ってたりして、派手グループの男子たちと男女数人で港祭りに行ったり、海で花火とかしたり、スケート行ったり、そういう楽しい高校生活が幕を開けました(笑)。
━━絵に描いたような派手グループの遊び方ですね(笑)。その中にいることに違和感を感じたり、それまで一緒にいた地味グループから疎まれるみたいなことはありませんでした?
坂本:単純に楽しいって感じだったんですけど、「なんで私この人たちといるんだろ?」って思ったりもしてましたね。地味グループの子とも仲はよかったので、楽しかったです! 「こんなに自由にしててもいいんだ」ってことに生まれて初めて気が付いて、「私、解放されてる!」って感じでした(笑)。
━━なんか、どんどんと自分の殻を破っていく少女マンガのヒロインみたいですね(笑)。そんな充実した生活の中でも、やはり看護師になるという夢は変わらずあったんでしょうか?
坂本:変わらずでしたね。その時から大学を受けることは決めていて、先生からは滑り止めで市内の看護専門学校を受けろと言われたんですけど、きっぱりと断りました。三者面談でも、専門学校を受けるように言われたんですが、親も大学へ行かせたいって気持ちがあったので、先生の前で「専門は受けません!」と言ってくれました。
━━娘の意思を尊重してくれたわけですね。
坂本:はい。だけど、結果的には全部落ちちゃって…。函館で浪人するという道もあったんですけど、もっと勉強に集中しなきゃと思い、札幌の予備校に通わせてもらうことにしました。その一年は猛烈に勉強して、1年間でセンター試験の点数が200点くらい上がりましたね。
━━おぉ、天才少女っぷりが戻ってきましたね(笑)。予備校に通うことになって、初めて函館、そして親元を離れることになったかと思いますが、どんな気持ちでしたか?
坂本:札幌は都会だなぁと思いました。それと同時に、もっと都会に行きたいなとも思いました。
親元から離れて思ったのは、何よりも親のありがたみですね。今まですごく甘えてたんだなぁと。反対に、親がいないことで、色々なことに踏み込める、挑戦できるという実感もありました。
━━踏み込める、挑戦できるというのは?
坂本:私の親は色々なことをやらせてくてたんですけど、すごく厳しくて。「中学まで附属に通って、中部か遺愛の特進に入って、その後は国立の大学に行くのよ」みたいなことを小さい頃から言われて育ったんです。高校で中部に行けなかった時に、親から私に対する諦めの気持ちみたいなものを感じてしまって、だけど何とかして期待に応えなきゃって思う自分もいて。親が期待する道と、自分の進みたい道の間で悩むこともありました。
はじめは、そういった親の期待をお姉ちゃんが一身に背負っていたんですけど、お姉ちゃんが夜遅くまで遊びに行き始めたりすると、親が望む〝いい子ゾーン〟から外れていって。そしたら今度は、親の目が私の方に向けられることになったんです。高校3年生くらいまでは、なんとか親の期待に応えようと一生懸命頑張ってたんですけど、親元を離れて札幌で暮らし始めたら、門限のある学生寮に住みながらも「こんなに自由にしていいんだ!」という感覚が芽生えました。札幌で生活する中で親の期待から解き放たれたことを自覚した時、函館に戻らずに、とりあえず親がいないところで頑張ってみようという気持ちが固まりました。
━━函館が田舎で物足りなかったというよりも、とにかく親元を離れたという気持ちが強かったということですか?
坂本:そうですね。函館って住みやすいし、いい街だなぁと思うんですけど、とにかく親元を離れて頑張りたいという気持ちが強かったです。
━━それで、進学先は東京に決めたと。
坂本:そうですね。あとは、国際看護師になるためには、人との繋がりも大切だということを知って、東京に出た方が色々な人と繋がりを持てるかなという考えもありました。
結果的には、親の希望だった国立大学ではなかったですけど、一応公立の大学に受かって、その時は親も喜んでくれましたね。親の期待にもある程度応えられ、自由も得られて、とても充実した浪人生活だったと思います。