過去に学び、これからの暮らしを紡ぐ
21世紀の開拓使が切り開く"懐かしい未来"

宮本英樹さん(46)
 職業:牧場経営
出身地:置戸町
現住所:函館(七飯町)
 置戸町→東京→フィリピン→札幌→函館(七飯町)

 
大沼の畔で、『Paard Musée(パド・ミュゼ)』という牧場を経営している宮本英樹さん。駒ケ岳を望む広大な敷地では、世界各地からやってきた馬と、北海道の在来馬である「どさんこ」が一緒に草を食み、大自然の中で人々と暮らしを共にしています。
生粋の開拓一家に生まれた宮本さんは、道東の置戸町で生まれ育ち、高度経済成長期の真っ只中で、自分が親しんできた自然やコミュニティーが破壊されていく様子を目の当たりにしてきたといいます。地元を出て世界中を放浪した後に、北海道へと戻り、〝エコ〟や〝暮らし〟という観点から道内各地で様々な交流事業を成功させてきた宮本さん。現役の開拓使として活躍する彼が、次に目指したのは〝懐かしい未来〟でした。〝21世紀の開拓〟というコンセプトを掲げ、新天地・大沼で持続可能な暮らしを体現している宮本さんに、失われつつある馬との暮らしや、エココミュニケーションと経済の在り方、函館の街に感じる〝チグハグ感〟などについて伺いました。
 

取材・文章:阿部 光平、撮影:妹尾 佳、イラスト:阿部 麻美 公開日:2016年6月13日

 
 

 
 
 
 
 
 

開拓一家に生まれ、自然環境とコミュニティーの崩壊を目の当たりにしてきた幼少期

 

 
━━宮本さんは、どちらのご出身なんですか? もともと畜産や農業と関わりが深かったのでしょうか?
宮本:出身は北海道のオホーツク、置戸町ってところですね。実家は農家と林業をやってて、18歳まではそこで暮らしてました。
 
━━18歳で置戸町を出た理由は何だったんですか。
宮本:進学というか、まぁ人生探しみたいな(笑)。
 
━━ご実家が農業をやられてたということは、家を継ぐという選択肢もあったかと思うんですが?
宮本:うちは開拓一家なんですよ。北海道に渡って、たぶん俺で開拓5世とかだと思うんだけど、一度も同じところに住んだことはないんですよね。一代ずつ、新天地を求めて移動してる生粋のパイオニアなんです。
 
━━へぇー! ちなみに、5代前からの軌跡はわかってるんですか?
宮本:最初は黒松内、次が真狩で、その次が十勝の浦幌。置戸でも、じいさんの代と親父の代では、別の場所に動いてて。
 
━━それって、基本的には農業をやりながらってことなんですか?
宮本:開拓ですね。
 
━━開拓って、言葉としては知ってても、何をするのかはピンとこないんですが…。具体的にはどういうことをするのでしょう?
宮本:新しい土地を拓くってことなんだけど、北海道の開拓っていうのは西側から行われて東に進んでいったんですよ。アメリカの西部開拓とは逆だけど、西から東へ、海から内陸へ向かっていったんですよね。で、置戸町って、東の内陸だから、まさにラストフロンティアなんですよ。
 
━━じゃあ、そうやって開拓地を求めて移動していった一族ってことなんですね。
宮本:そういう習性なんですよね(笑)。家訓は、「苦しいことがあったら逃げる」だったので。まず、逃げると。
 
━━苦しくなったら、新天地を目指せってことですか?
宮本:うん、そうですね。
 
━━そういう家庭環境の中で、幼少期はどのように過ごされていましたか? 「他の家と違うなぁ」みたいな感覚ってありました?
宮本:当時の置戸町って、他の北海道の地域と比べて30年くらい遅れてたんですよ。1970年代でも、家の前は普通に馬車、馬ソリっていう世界で、それに乗って買い物に行くって状態だったんで。
だから、今でも覚えてるけど、小学校2年生くらいの時に、街から転勤してきた先生がいて、そこの家の子が、サンドウィッチを作ってきて。「何それ?」みたいな(笑)。しかも、ピーナッツバターとか挟まってて、「なんじゃこりゃー!」って。体がしびれたよね(笑)。だからもう、そういう生活。アメリカでいうところの『大草原の小さな家』(2)みたいな。
そこで、木を切って、畑を作って、暮らしてましたね。
 
━━まさに、誰もがイメージする〝開拓〟という暮らし方だったんですね。
宮本:そういう暮らしの中で、そのもうひとつ特徴的なのは、相互扶助っていう関係性なんですよ。コミュニティーを大事に、近所の人達と仲良く暮らしてたっていう。
開拓民っていうのはマフィアみたいな感じで、血筋こそがすべてって意識があるから、親戚が多ければ多いほどいいんですよ。例えば、うちの実家は置戸町の最上流部にいるんですけど、親父の妹は中間にある北見市っていうところの風呂屋とか、商業の家に嫁いでいったり、佐呂間町の漁師に嫁がせたりとかして、それで親戚内で物々の物資を交流できるような戦略をとるんですよね。
 
━━なんか、戦国時代の豪族みたいですね(笑)。
宮本:まさにそうで、だから親戚も多いし、近所の人たちも仲がいいから、コミュニティはすごく豊かなんです。そういう環境で暮らしてきたんだけど、1970年代って何があったかっていうと、日本は高度経済成長期だったわけですよ。お金が余ってた。それで、北海道の東側に投資先を求める人が増えて、一気に開発が進んだんですよね。
 
━━お金による開発が。
宮本:そう。そういう投資はイコール自然破壊なんですよ。ゴルフ場とかリゾートホテルとか、あとは三面張りを作ったりっていう。
 
━━三面張りって何ですか?
宮本:川が氾濫しないように、コンクリートを三面にうつんですよ。そうすると、今までは農薬使ったりしても自然の浄化作用が働いたりしてたものが、そのまま一気に海まで流れていくことになる。それでホタテの養殖とか魚にまで被害が及んだりっていう、バカみたい事態になるわけですよ。
他にも、パイロットファームっていって、根釧台地ってところに巨大な実験農場を作って、パイプラインで牛乳を首都圏に持っていくっていう計画とかもあったんです。世界銀行から金借りてまで、ものすごい額の投資をして。そういう時代だったんですよ。高度経済成長期でイケイケだから、余ったお金をどこに投資するのみたいな。しかも、今みたいに世界と仲が良い時代じゃないから、北海道の東に土地がいっぱいあるだろって話になって。
とにかく、都市化こそが近代化だと信じてたんですよ、当時はみんな。こんな田舎の原野じゃなくて、やっぱりコンクリートでできた建物を作ろうって。
 
━━都会に追いつけ追い越せという意識だったんですね。
宮本:東京とか札幌を見てね。そういう事業を誰が誘致したかっていうと、地元の人なんだよ。俺らの親父の世代だよね。
だけど、結果的には自然が壊れただけで、産業としては何も残らなかった。我々は、ただ自分の遊び場である自然が壊されていくのを目の当たりにしてたんです。
 
 

 
 
 
 

━━高度成長期の産業が道東に残らなかった原因は何だったのでしょうか?
宮本:原因のひとつは、木材貿易の自由化ですね。1954年の洞爺丸台風で、大雪山の東側の木が一気に倒れたんです。当時、東京では高度経済成長期だから材木の需要がすごくて、北海道から原木で運ぶより、道東に町を作って、製材したものを送った方が効率的だってことになったわけですよ。だから、置戸町もそうなんだけど、〝木材城下町〟っていって、丸太から柱材、床材、最後は割りばしまでって感じで工場が乱立したわけです。もうゴールドラッシュみたいなもんですよね。
だけど、1970年代になって日本がアメリカに日本車を輸出したいってことで、関税を下げたいってことになる。それに対して、アメリカは木材の関税を下げろといってきたと。その結果、日本はアメリカで車が売れることになったんだけど、代わりに安い木材が入ってきたんですよ。それで、木材城下町とか産業とかが、一気になくなったってことですね。
 
━━価格の競争に敗れて、生き残れなくなったんですね。
宮本:あと、農業に関しては、ガット・ウルグアイ・ラウンド(3)っていう、今のTPPより前に農業を自由化をしようって動きがあって、国が北海道に大量生産を求めるようになったんですよ。そうなると、北海道ってもはや、本州に対する原料供給地なんですよね。国はもっと大きく土地所有しろっていうんだけど、農地ってのは限られてるから、大きくするってのは、結局は隣を潰すってことになるわけです。
それで、それまで相互扶助を基本としていた農村地帯が、競争社会に巻き込まれると。農業は機械化が進むんだけど、結局は機械屋が儲かるだけで、農家は全然儲からない。それどころか借金が増えていくみたいな状況を、幼少期から青年期にかけて見てきて、「本当にこれが正しい道なのか?」って思ったわけですよ。
自然も、自分の好きだったコミュニティーも壊れていって、人がいなくなるし、競争社会だからギスギスするしっていう。やっぱり人間って、原風景が壊れていくっていうのは辛いものでしょ。だから、18歳くらいになると、自分の理想郷を求めて放浪の旅とかに出ちゃうんですよね。多くの人が通る道だと思うけど(笑)。
 
━━当時、宮本さんが求めていた理想郷っていうのは幼少期に過ごしたような環境ってことですか?
宮本:そうそう。自然をきちんとリスペクトして、エコロジカルシステムの中で生きること。都市化こそ近代化、文明こそ近代化っていう時代に、迎合しないような世界を求めてましたね。
 
━━僕の個人的な感覚からすると、田舎で育った少年って都会に対する憧れとかがあったりすると思うんですけど、どちらかというと都会生活に対してアンチな姿勢だったんですかね?
宮本:アンチ近代化、アンチ西欧化っていうような感じですね。あの頃、そういう考えを持ってた人って、大体インドでヒッピーカルチャーに触れ、東南アジアに行って、何か考えるみたいな感じになるんだけど、まさに自分もそうで。一応、東京の大学に籍を置きながらですけど。
 
━━アンチ都会的な姿勢でありながらも、東京の大学に進学した理由はなんだったんですか?
宮本:別に東京に行くつもりはあんまりなかったですけどね。高校卒業してすぐに、沖縄に行ってサトウキビ畑で働いてたんだけど、そこですごい迫害されたんですよ。
 
━━迫害といいますと?
宮本:「お前プータローか」って。一方で、同じバイトしてるのに大学生は「大学行きながら、こんな所でバイトもするなんて偉いねー」とか言われてるわけ(笑)。この差はいったい何なんだろうと考えときに、「世間的には、大学に籍を置いといた方が優位なんだな」と思って。
だから、東京に行ったのは別に街自体が目的ではなく、どちらかといえばハブとして見てた感じですかね。東京からなら、どこへ行くにしても便利だなと。
 
━━実際には、どういうところへ出かけてたんですか?
宮本:インドとかにも行ったけど、最初に国際ボランティアで行ったのはフィリピンのネグロス島ってところで。主産業として砂糖を作ってた島なんだけど、その頃『ダイエットコーク』(4)っていうのが出てきて、砂糖の値段が暴落しちゃったんですよ。それで、砂糖作る必要がなくなったから、地主達がみんないなくなっちゃったわけ。
でも残された人達ってのは、砂糖しか作ったことないし、自分たちの土地じゃないから勝手にできないっていうのもあって、貧困に陥っちゃたんですよ。たぶん、人類で初めて、天災ではなく、社会構造の影響で貧困とか飢餓を味わった島なんですよね。その人達と、畑を活かす方法とか、砂糖を売る方法を考えたりしてましたね。
 
━━大学に籍を置きながら、NGOの活動をされてたんですね。
宮本:そうそう。それで、その時に島の長老から「お前はいいよな、日本人で」って言われたんですよ。「こんなとこまでわざわざ来て、我々を助けてくれるんだ」って。その言葉が、「他人のことじゃなくて、もっと自分の足元にもやるべきことがあるんじゃないか?」っていうようなサジェッションに聞こえたんですよねー。
 
━━長老の言葉の裏には、自分に対する別のメッセージが込められていた気がしたと。
宮本:さっきも言ったけど、北海道っていう島は本州に対する原料供給地というか、極端に言ったら植民地的だなと思って。原料を売って、加工品を買ってる時点で対日赤字がすごいいわけじゃないですか。しかも、国の政策が変わるごとに状況も変わるから、思いっきり振り回されると。これってまるで今の第三世界っていうか、東南アジアと日本の関係と変わんないじゃんって思ったんですよね。
そう思ったときに、海外でボランティアしてるんじゃなくて、北海道に帰って内発的な発展に寄与すべきなんじゃないかなって考えるようになって。それで、2223歳のときに北海道へ帰ってきました。 
 
 
 
 
 
2:大草原の小さな家
1970年代から1980年代にかけて放送されたアメリカのテレビドラマ。西部開拓時代のアメリカを舞台にした家族の物語で、全9シーズンが放送された。
 
3:ガット・ウルグアイ・ラウンド
世界貿易上の障壁をなくし、貿易の自由化を促進するために行われた通商交渉。
 
4:ダイエットコーク
砂糖ではなく人工甘味料を使用することで、カロリーを大幅にカットしたコーラ
 
 

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