18歳にして一家の大黒柱となった少年が見つめた未来と
仕事の中で見つけた生産者と消費者を繋ぐ喜び

角野 展稔 さん(34)
 職業:ソムリエ
出身地:函館
現住所:東京
 函館→東京
 

 
 
 
18歳のときに母親を亡くし、残された弟妹を支えるために、働き詰めの青春時代を送ったという角野展稔さん。突然訪れた母親の死によって、「自分もいつ死ぬかわからない」と考えるようになった角野さんは〝自分の城〟を築くつもりで上京し、何のツテもないまま飲食の世界に飛び込んだといいます。
現在は、オーナー兼ソムリエとして、千駄ヶ谷でビストロ『やさいとワインの店 アンフォラ』を経営する角野さんに、裕福な暮らしから一転して「本当に貧乏だった」という函館での生活や、読書体験によって培われたポジティブな生き方、農楽蔵をはじめとする函館近郊の生産者の方々との衝撃的な出会いなどについて伺いました。

 
取材・文章:阿部 光平、撮影:馬場 雄介、イラスト:阿部 麻美 公開日:2016年12月17日

 
 

 
 
 
 
 
 

両親の離婚、母親の死を経て、一家の大黒柱となった18歳

 
 

 
━━函館にいた頃のお話も聞かせてください。
角野:小さい頃は美原に住んでいました。函館木工の近くです。
父親が配管工事の会社を経営していて、母もそこで一緒に働いていました。従業員100人くらいのけっこう大きな会社だったんですけど、ちょうどバブルの時期だったので、すごく景気もよくて。そんな中で、のうのうと良い暮らしをしていました。
 
━━小さい頃は、どんな少年だったんですか?
角野:うち5人兄弟なんですよ。上2人が兄で、僕が3番目で、弟と妹がいるんです。小さい頃は、上の兄と遊ぶことが多かったですね。空き地がたくさんあったので、秘密基地を作ったりして。
中学の頃は、悪ぶりたいというか、そういう気持ちがあって。ちょっとヤンチャなグループに入って遊んでました。とはいえ、長崎屋の上でたむろするくらいなんですけど。小学校は昭和で、中学は亀田で、高校は商業に通っていたので、けっこう狭いエリアの中で過ごしていましたね。
あとは、よくバイトをしていました。小さい頃から「仕事をしたいな」って気持ちがすごく強かったんですよ。実際に、小学生の頃からチラシ配りのバイトとかやったりしていましたね。
 
━━それって欲しいものがあってバイトをしていたんですか? それとも、単純に働くことが楽しくて?
角野:お金をもらったりとか、大人の人と絡んで何かをするのが好きだったんですよ。結局、すぐ遊びに行って使っちゃうんですけど。
小学校2年生くらいのときには、将来の夢を「会社の会長」って書いてました(笑)。自分も父親の会社に就職するんだろうなって思ってたので、中学校を卒業したら、すぐにでも働こうと考えていましたね。
 
━━けれども、結局は商業高校に行ったんですよね?
角野:コンピュータにちょっと興味があって、「これからはパソコンの時代になるのかな」ってなんとなく思っていたんです。仕事をしていくためには、そういうのを学んだ方がいいのかなって。あと、商業って全校生徒の8割くらいが女子なんですよ。それもいいなって(笑)。
 
━━そのときも、下心に忠実な行動だったわけですね(笑)。実際の高校生活はいかがでしたか?
角野:楽しかったですよ。でも、いざこざがあるとすぐに広まっちゃうので、女子と変な別れ方とかしちゃうと、その後の高校生活はおしまいなんですよ。「あの男は最低だ」みたいな話が広まっちゃって(笑)。
 
━━そういうときの女子の団結力って固いですもんね(笑)。
角野:ですよね(笑)。だけど、高校のときはバイトが多かったですね。その頃、ちょうど親父の会社が倒産したんです。それで、親が離婚したんですよ。兄弟は5人とも母親の方についたんですけど、兄貴2人は札幌の学校に行っていたので、母親がひとりで働いてる状況でした。だから、自分の小遣いくらい自分で稼がないとってことでバイトをしてたんです。家にもお金を入れたかったですし。
それまではけっこう広い家に住んでたんですけど、引っ越した先がすんごい狭いアパートで(笑)。母親と弟妹の4人で暮らしていたんですけど、一気にもう、人生が変わっちゃいましたね。

 
 
 

━━お父さんの会社が倒産した時点で、思い描いていた未来への道筋が断たれたわけじゃないですか。その頃は、また別の未来を見据えていたんですか?
角野:その時は、もう未来なんてなかったですね。今とりあえず働いて、家を助けなきゃって状況だったので、自分が将来どうこうってのはまったくなかったです。一応、母親が栄養士の短期大学を出ていて、そこ受けたらと言われたのもあって、卒業後は短大に行く予定だったんですけど、今度は母親が膵臓癌で亡くなったんですよ。
だから、短大へは行かずに働きました。高校のときは、イトーヨーカドーの食品売り場で働いてたんですけど、時給が630円とかですごく安くて。友達から「ハセガワストアは時給800円くらいもらえて、しかも弁当まで食えるぞ」って話を聞いて、そっちにいったんです(笑)。当時は、母親がもう長くないと言われていたので、深夜のバイトというのも都合がよかったですし。結局、そのまま母親は亡くなっちゃったんですけど、1年くらいはハセストでバイトをしていました。
 
━━その1年間というのは、弟さんと妹さんと3人で暮らしながら、バイトをして。要するに、一家の大黒柱だったってことですよね? 18歳にして。
角野:そうですね。兄貴2人が札幌だったので、僕が料理とか家のことは全部やってました。妹はまだ小学生だったんですけど、そのうち料理ができるようになって。ちょっとずつみんなで協力しながら暮らしていましたね。本当にもう貧乏生活でしたけど(笑)。
 
━━そのときは、角野さんがひとりの収入で暮らしてたんですか?
角野:兄貴達が札幌でバイトしたお金を送ってくれたり、周りの親戚とかにも助けてもらって暮らしていましたね。あとは、母親が7つくらい仕事を掛け持ちしていたんですよ。とにかくすごい仕事をしていた人で。
 
━━7つ!? 同時にですか?
角野:宝石関係とか着物の仕事とか、浄水器を売ったりだとか、あとは居酒屋もやってました。いつも忙しい人だったんですよ、離婚してからは。
 
━━サラッとお話してくれましたけど、もの凄く大変な1年ですよね。肉体的にも、精神的にも。家庭を支えながら働いていたハセストを1年で辞めた理由は何だったんですか?
角野:兄貴が帰ってきたんですよ。大学を卒業して、函館で就職することになって。それで、自分も就職しようと思って運送会社に勤めたんです。そこは、19歳から22歳くらいまでいましたね。給料もよかったですし。
で、最初は事務として入社したんですけど、仕事が好きなので色々と覚えていくうちに、「運送も行け!」とか「大型免許とってもいいぞ!」とか、「リフトの免許もとれ!」って言ってもらって、何でもできるようになったんです。だけど、残業手当が出ない分、自分よりも課長の給料の方が安いという話を聞いて、ここに骨を埋めても仕方ないなって思うようになったんです。
 
━━未来が明るくないと思うと、仕事のモチベーションも上がらないですよね。
角野:母親が亡くなったのが、やっぱり大きなきっかけになっていて、人生は一回きりだから、どうせだったら函館の小さいところにずっといるんじゃなくて、東京とかニューヨークとか、そういうところに行きたいなって思うようになったんですよね。
あれだけ元気だった母親が、本当に突然死んじゃったんで、自分もいつ死ぬかわからないって気持ちがあって。それだったら好きなことをやったほうがいいなと。もう親もいないから、心配する人もいないし、だったら好き勝手やったほうがいいかなって。その頃には、弟や妹もだいぶ大きくなってきてたし、兄貴もいたので、「じゃあ、東京行くわ!」ということにしたんです。
 
━━特に何も決めず、いきなり単身で上京したんですか?
角野:そうですね。なんとなく自分で飲食のお店をやりたいなとは思ってましたけど。
 
━━運送会社で働いていて、2年以上は飲食業界と離れてたわけじゃないですか。だけど、東京では飲食でやっていきたいって気持ちだったんですか?
角野:飲食って入りやすいというか、何も資格を持っていなくても、とりあえず働けるんですよ。ご飯も出るし。
あと、母親がもともと栄養士だったので、料理が上手で、自分も食べるのは好きだったので、そういう影響もあったのかなとは思います。
 

第4回へ続く