花を愛で、パンクを貫く
批判も評価もひとりで受け止めるという孤高の精神

加藤 公章さん(34)
 職業:花屋
出身地:函館
現住所:函館
 函館→札幌→函館
 

 
 
 
海と山が遊び場だった小学生時代から一転、ギターを買ってもらったのをきっかけに中学時代からバンド活動にのめり込んでいったという加藤公章さん。その情熱は止まることを知らず、高専卒業後には札幌に拠点を移してバンド中心の生活を送っていたそうです。そこで生活を支えるために始めたのが、花屋のアルバイト。一見、バンドマンとは無縁の職業ですが、花屋で働くことで〝仕事〟に対する意識が大きく変わったといいます。バンドにすべてを注ぎ込んだ青春時代、そこで培われたパンクスピリッツが、どのように花屋と結びついていったのか、現在弁天町で『BOTAN』という花屋を経営している加藤さんに、その半生を語っていただきました。

 
取材・文章:阿部 光平、撮影:妹尾 佳、イラスト:阿部 麻美 公開日:2015年9月18日

 
 

 
 
 
 
 
 

パンクバンドから花屋さんへ

 
 

 
━━では、卒業後もバンド漬けの生活を?
加藤:『DU』は高専4年生の時に解散したんですよね。まぁ、ちょっと物理的に続けられなくなっちゃって。それで卒業前に、新しいバンドを組んだんですよ。今度はメンバー5人のバンドで、そのうち3人が同い年の高専生だったんですけど、僕以外は就職が決まってたんですよね。
だけど、卒業後もバンドやろうってことで、仕事を半年でやめて、また函館に集まろうっていう話になったんです。その間、僕は名古屋の自動車工場へ出稼ぎに行ってました。アンプとか、自分の機材とかを揃えるためにお金が必要だったので。
 
━━なるほど。それで、出稼ぎに行って、半年後には函館に戻り、そのタイミングで他のメンバーも帰ってきたと。
加藤:いや、それが実際には戻ってこれなくて
 
━━やはり就職しちゃうと、おいそれとは戻ってこれないですよね。
加藤:そうなんですよね。そこから僕は、函館生活が1年くらい続いたんですけど、その間にひとりが戻ってきて、だけど札幌に行っていたもうひとりが戻ってこれなくて。だけど、そいつはライブや練習の度に函館に戻ってきてたんですよ。もうそれだったら、いっその事、札幌に拠点を移そうという話になって。22歳の時に、メンバー全員で札幌に引っ越しました。
 
━━ライブや練習のために函館に戻ってきていたというのも情熱を感じるエピソードですが、バンドごと札幌に行っちゃえというのも思い切った話ですね。もう、どうしてもそのメンバーでやりたいという気持ちだったんですか?
加藤:そうですね。あとは、単純に札幌の音楽シーンが好きだったんですよ。だから東京とかっていう考えはなくて、札幌でバンドをやりたいという気持ちでしたね。
 
━━当時、札幌の音楽シーンというのはどういう雰囲気、状況だったのでしょうか?
加藤:『eastern youth』や『bloodthirsty butchers』という札幌出身のかっこいいバンドがあって、彼らに影響を受け、あとに続くバンドがたくさんいました。僕らもモロに影響を受けていたので、札幌のライブシーンは刺激的だし面白かったです。
 
━━実際に、そういったシーンに飛び込んでみた感想はいかがでしたか?
加藤:感触はよかったですね。カウンターアクションとか、ピグスティーとか、スピリチュアルラウンジとかでライブをしていて、すぐに同志が見つかったし、同じような考え方を持った同世代の人たちともたくさん出会えました。
 
━━バンドに情熱を傾ける一方で、生活はどのようにして支えていたのでしょう?
加藤:函館にいた時は土建会社で穴掘ってたりとか、解体やったりとか、そういう現場の汗にまみれて、埃にまみれてっていう仕事をしてたんですよ。下水処理の仕事やってた時なんかクソまみれみたいな感じで(笑)。「もう、こんな仕事イヤだ!二度とやるか!」って感じだったので、札幌では違う仕事をしようと思っていて。たまたま求人情報を見てたら、家の近くに花屋さんがあって、「あっ、ここいいな!」って思って、応募したんですよ。
 
━━クソまみれから花屋に! すごいギャップですね(笑)!
加藤:そうなんですよね(笑)。でも、いざ行ってみたら普通の花屋さんじゃなくて、葬儀の専門の花屋さんだったんですよ。葬儀の斎場に常駐していて、お葬式の祭壇を飾る花屋さんという。それがもう衝撃的で。女の子がいっぱいいる職場を想像してウキウキしていったら、男しかいなくて(笑)。
でも、メインはバンドだったので、練習やライブのために休みは自由に欲しいというところまで包み隠さず社長に伝えたら、即採用してもらったんです。
 
━━実績ある人ならまだしも、何の経験もない若者を、そういった条件で引き受けてくれるというのは、とても理解のある社長さんだったんですね。
加藤:本当にそう思います。とにかく、バンドをやりたいという想いに共感してもらえたのが嬉しかったですね。

 
 
 

━━もともと花には興味があったんですか?
加藤:いや、全然(笑)。花との関わりといえば、母親が庭でガーデニングをしてたってくらいで。
 
━━じゃあ、花の種類もよくわからないくらいの感じですか?
加藤:何にも知らなかったですね(笑)。
 
━━「とにかくもうクソまみれはごめんだ!」と(笑)。では、そこでバイトをしながらバンド活動を続けていたわけですか。
加藤:そうですね。だけど、バンドは3年目で休止になっちゃったんですよ。メンバーが事故に遭って、続けられなくなっちゃったんです。それで、これからどうしようかっていう時期だったんですけど、仕事も始めて3年たったことだし、他の花屋さんも見てみたいなって気持ちになって。それで斎場の花屋さんを辞めて、別の花屋さんで働くことにしました。
 
━━その頃には、花への興味関心が強くなっていたんですか?
加藤:バンドが止まっちゃったことで、仕事を頑張ろうかなって気持ちにはなっていましたね。
結局、その1年後くらいにはバンド活動を再開するんですけど。そうなると、またバンドがメインで仕事を抑えてという生活になり、職場を変えてみたいな感じになって。結局、花の業界だけで6~7社を転々としたんですよね。その中で仕事を任せてくれる会社があって、バンドをやりながらも、「あれ!?仕事も楽しいぞ?」っていう時期がきたんです。自分の仕事が評価されたりして。
それまではなんというか、社会の底辺じゃないですけど、クソミソに言われながらバンドをやってたわけじゃないですか。「なんだお前!くだらねえ!」みたいなことを言われながら。僕は「うるせーよ!俺は俺でやるんだ!」っていう気持ちで27歳くらいまではやってたんですけど、だけど自分の仕事が評価されだしてくるとちょっと意識が変わってくるんですよね。あんなに嫌だった社会が、ちょっと充実してきたっていうか、変な感じで。そうして自分の技術を買ってくれる人が現れた時に「このままじゃバンドは続けられないな」って思って、そこで音楽はきっぱりやめました。
 
━━働くことに楽しみが増えてしまったから、仕事に全力を注ぐためにバンドはもうやめようと。
加藤:はい。
 
━━仕事に対する喜びというのは、会社からの評価にあったのか、お客さんの反応だったのか、どういうあたりに感じていたんですか?
加藤:それは両方ありますよね。最初に働いていたお葬式の花屋さんって、あんまりお客さんと会話したりとかはしないんですけど、遺体のそばに飾ってある花を見て、涙を流して喜んでくれる姿とかを見て「あ~、自分はこんな仕事をしているんだなぁ」って改めて感じたりとか。
やっぱりバンドを一生懸命やってた時って、仕事の手を抜いてたわけではないんですけど、中途半端にやってる感じがあったんですよ。あんまり深く考えてやってなかったというか。だけど、お客さんと接して話を聞く機会が増えてくると、このままじゃダメだなって感じるようになって。これは真剣にぶつかっていかないとダメだなと。そうなった時に情熱がバンドから仕事の方にシフトしていきました。
 

第4回へ続く