両親の離婚によって生じた家族の距離と
映画が再構築した新しい家族の繋がり

岡本 まなさん(28)
 職業:映画監督
出身地:函館
現住所:函館
 函館→東京→函館
 

 
 
 
3歳の時に両親の離婚を経験し、父と母との間で揺れ動く青春時代を送ってきたという岡本まなさん。自分でも整理しきれない悶々とした気持ちは、いつしか表現を渇望する彼女のエネルギーとなり、知識も経験もない状態から『ディスタンス』という映画作品を生み出しました。離婚をきっかけにバラバラになった家族の今を、かつての映像を交えながら描いた同作は、『山形国際ドキュメンタリー映画祭 2015』でアジア千波万波部門に選出。映画監督の山下敦弘やceroの髙城晶平、俳優の太賀など、様々な方面から高い評価を受け、大きな話題になっています。
この映画を地元・函館で撮影し、さらには函館を舞台にした映画『オーバー・フェンス』にも出演予定の岡本さんに、幼い頃に抱いていた両親への想いや、自分の映画が現実世界の家族に及ぼした影響、出産や次回作のことを含めた今後の展望などについて伺いました。

 
取材・文章:阿部 光平、撮影:妹尾 佳、イラスト:阿部 麻美 公開日:2016年8月27日

 
 

 
 
 
 
 
 

人生を大きく変えたカフェバーRoji』との出会い

 

 
━━東京での生活はいかがでしたか?
岡本:寂しいとかは全然なくて、「楽しいー!」って(笑)。自分には合ってたと思います。
 
━━専門学校も楽しかったですか?
岡本:いやぁ、その時も、こじらせてたというか。1年通って、2年間休学したんですよ。とにかく、学校の空間が嫌で。まず、先生に教えられるってことが嫌だったし、本当に苦痛だったんですよ。自分が考えたくもないようなことを教えられているって感覚があって。とにかく嫌で嫌で仕方なかったです。
保育って、やっぱり幼少期のこととかを勉強するんですよ。子どもにどう接するか、子どもをどうやって受け入れるかみたいなことを。そういうのを聞かされてるうちに、自分の幼少期と向き合うようになって、それがけっこう辛くなってたんですよね。「あー、自分って、こんな風に受け止められなかったな、可哀想だったんだなぁ」とか思って。
過去と向き合うってのが初めてのことで、小さい頃は感じてなかったんですけど、「けっこう寂しい思いをしてたんだなー」とか、「だから、ああやってフザケてたのかなー」とか思ったりして。そういうのが辛くて、「ちょっと学校行くの無理だわ」ってなっちゃったんですよね。
それで、どうにかこのモヤモヤを表現したいって気持ちが強くなっていったんです。
 
━━演技という方向に進み始めたのは、その頃ですか?
岡本:そうですね。その頃に、『ゴーストワールド』とかを見て、「あ、なんか自分と似たような感じの人っているんだな」って思ったりしてました。その辺りから演じることに興味を持つようになったんですよね、「役者ってすごいなー」って。
 
━━具体的には、劇団に入るとか、そういうアクションはあったんですか?
岡本:演技のワークショップに参加したりとかはしてました。あと、最近思い出したんですけど、変な劇団っていうか、スタジオみたいなのに1年くらい入ってたんですよ。
 
━━1年も通ってたのに、最近まで忘れてたんですか?
岡本:そうなんですよ(笑)。結局1年通して、一切演技とかしなかったんですよ、私。シナリオももらえないし、「お前は、まだ早い」みたいな感じで。
 
━━そこで、1年間も何をやってたんですか?
岡本:なんかマッサージとか。体の使い方とか呼吸法とかが演技には大切だってことで、そういうのをやらされてましたね。最初は「そうなんだー」って思ってたんですけど、今考えるとなんだったんだろうって(笑)。
その1年で、一回だけ劇場で公演があったんですけど、私は音響係に指名されたんですよ。で、さすがにこれは違うなって思って、辞めました。まぁ、気づくのに1年もかかったんですけどね(笑)。
 
━━もう行ってたことを忘れちゃうくらい内容のない1年間だったと(笑)。
岡本:そうでしょうね。一番印象に残ってるのは、先生が言ってた「大根を醤油とごま油だけでさっと炒めたらめちゃくちゃ美味しいぞ!」っていう話で。それをすごい勧められて、未だに作るんですけど、確かに美味しいんですよ。
 
━━美味しいんだ(笑)
岡本:はい(笑)。そこで得たものといえば、それくらいですね。大根醤油炒め(笑)。

 
 
 

━━結局、専門学校には復学したんですか?
岡本:ちゃんと復学して、資格とって、卒業しました。保育の資格を取って、東京で保育士をやってたんですけど、結局、映画に対する思いが増すばかりで。1年で辞めちゃいましたけど。
 
━━映画から遠いところにいる自分に満足できないというか。
岡本:そうそう、そうですね。さらに気持ちを掻き立てるスパイスになっただけでしたね。
 
━━それで、本格的に映画作りを始めることになったと。先ほどの話だと、阿佐ヶ谷の『Roji』というお店での出会いが、映画を作る上での大きなポイントになったのかと思うんですけど、どういう経緯で働くことになったのでしょうか?
岡本:『Roji』は、もともとお客さんとして行ってたんですよ。『cero』というバンドの髙城晶平くんと、お母さんのルミさんがやってる店なんですけど、ceroが忙しくなってきて、髙城くんがなかなかお店に立てなくなってきた頃に、「月に1、2回でいいから手伝ってよ!」ってことになったんです。
そこで石井監督にも出会ったし、『ディスタンス』のプロデューサーの浅井一仁さんとの出会いも『Roji』だったし、劇中では『cero』の音楽も流れているし、本当に『Roji』との出会いがすべてですね。『Roji』がなかったら、この映画は作れなかったと思います。
 
━━周囲にそれだけ面白い人がいて、自分としてもやりたいことができてる環境だったとにも関わらず、なぜ函館に帰ることにしたんですか?
岡本:ちょっといろいろあって。急遽帰って来ることになったんですよ。東京の生活が楽しかったから、もう地元へ戻ることは絶対にないなって思ってたんですけどね。私も精神的にも参ってたので、映画が出来上がってから、逃げるようにして帰ってきました。不本意でしたけど。
でも、今となれば、東京だろうが函館だろうが、そこまで変わらないのかなとも思ってます。東京でいろんな人との関係が築けたので、そうなったらもうどこに住んでても大丈夫というか。東京に行けば会えるし、東京に住んでても毎日会ってたわけでもないし。まぁ、『Roji』とかは恋しいですけど。あと、映画館もこっちは少ないし、観たい映画がなかなか観れなかったり、ライブとかも行けなくなったのは寂しいですね。
 

第4回へ続く