■地に根を張れなかった群馬での社会人生活
━━以前は民間の企業にいらっしゃったというお話でしたが、市役所に入る前は、どんなお仕事をされていたのでしょうか?
沼田:群馬県にある自動車製造の会社で事務をやってました。函館高専を卒業して、そのまま就職したかたちです。
━━じゃあ、二十歳くらいで群馬県へ。
沼田:そうですね。中学は桐花に通っていて、けっこう早い段階で高専に入りたいと思っていたんですよ。
━━どうして高専に進もうと思ったんですか?
沼田:父がもともとIT系の企業の人間だったのもあって、小さい頃からパソコンを触るのが好きだったんです。まぁ、ほとんどがゲームでしたけど。それで、高専の情報工学科を出れば、コンピューター関係の専門家になれると聞いたのが理由のひとつです。
あと、うちの父は埼玉とか札幌とかで仕事をしてたんですけど、退職して地元である函館に戻って来たんです。そのときにいろいろと苦労していたというのもあって、高専の「就職率100パーセント」というフレーズに惹かれたのもありました。仕事のことで苦労をしないようにという気持ちがあったんです。
━━そうなんですね。では、高専では学業中心の生活を?
沼田:いや、高専に入ってからは、5年間アーチェリーばっかりやってましたね。
━━アーチェリー部ですか。そういえば、高専って、高体連とかの大会には出場しないですよね?
沼田:高専の場合は、高専大会というのがあるんです。とはいっても、高専は全道に4つしかないから、いきなり全道大会なんですけど。
━━そうなんですね!知らなかった。大会での成績はどうだったんですか?
沼田:全道では優勝したんですけど、アーチェリーは全国大会がないんですよ。全国の順位は決めるんですけど、大会を開催するんではなくて、各地方大会での点数を送付して、それを全国の高専の点数と比較して優勝を決めるんです。
━━へぇー。合理的だけど、競技的ではないですね(笑)。
沼田:なんか微妙なシステムなんですよね(笑)。そのときは、全国で2位か3位でしたね。まぁ、高専の中ですけど。
━━親元を離れるのは初めての経験だったと思いますが、群馬での生活はいかがでしたか?
沼田:ん~。暑かったですね…(笑)。一番印象的だったのは暑さでした。
43度くらいまで気温が上がるんですよ。東京からエアコンの熱が流れてくるせいで、街が暑くなるらしいんですけど。
━━そんなことがあるんですか!
沼田:そう言われてましたね(笑)。
━━暮らしにギャップはありました?街の規模としては、函館と比較して、どの程度だったのですか?
沼田:私がいた街は、人口は函館と同じくらいで、規模としてはあまり変わらなかったですね。だから、「都会だなぁ」とか「田舎だなぁ」とかはなかったです。
━━仕事では、どんな業務を担当していたのでしょう?
沼田:会社の方針で、1年目は必ず現場で、車を組み立てる仕事をするんです。その後は、生産管理という部署で、主に自動車を組み立てるときに必要な部品の手配などを行っていました。
こんな車が欲しいという営業と、造る車の仕様を決めている設計企画部門と、部品メーカーさんと、実際に車を造る技術者という4者の真ん中に立って、すべての調整をするという役割ですね。
━━いろんな立場の人の意見を集約して、間を繋ぐという役割として見ると、今の仕事と近い部分もあるのかもしれませんね。
沼田:言われてみれば、そうかも。だけど、自動車メーカーって機械系とか電気系の出身者が多いんですよね。
━━沼田さんは情報工学科の出身でありながら、なぜ自動車メーカーに就職したのでしょう?
沼田:単純に車が好きだったんです。
高専で勉強してたことからすれば、プログラマーやSEとして、ソフトウェア系の会社に入るのが王道なんですけど、そういう方面には向いていない気がして。やってて楽しめなかったんですよ。なので、純粋に好きだった自動車の仕事に就きたいなと。
━━では、沼田さんとしては充実した仕事だったんですね。
沼田:そうですね。仕事は楽しかったですし、職場の人にも恵まれました。
━━好きな仕事ができていたにも関わらず、その職場を辞めた理由は何だったんですか?
沼田:いろいろありますね。暑かったというのも理由のひとつですし、あとは、両親のことですね。私は、長男なんですけど、両親が関東には住みたくないと言っていたのもあって、「将来的に両親を群馬に呼ぶことはできないなぁ」と思ったんです。
そういうことを考えているうちに、20年後、30年後に、ずっと群馬で暮らしている自分を想像できなくなっていって。街に根を張れていないというか。それで、「函館に帰ろうかなぁ」という想いが強くなっていきました。