ファッションデザイナーとして、自身のブランド『Mady Mady』を運営している今泉円花さん。独自の世界観が詰まった洋服を作り続け、きゃりーぱみゅぱみゅさんや、はるな愛さんに衣装提供を行うなど、徐々に活躍の場を広げています。
幼い頃からオシャレに関心があったという今泉さんですが、高校生の時に飲食店で「わっ! でっかいリボンつけたヤツ入ってきた!」と指をさして言われたことがショックで、「私、函館にいちゃいけないんだ」と思うようになったといいます。今は東京で自分を解放できる場を見つけ、思い通りに表現することの楽しさを知ったという今泉さんに、ファッション好きをひた隠しにしていた幼少期のことや、高校生の時に味わったファッションに対するトラウマ、ストーリー性を意識した服作りについて伺いました。
取材・文章:阿部 光平、撮影:馬場 雄介、イラスト:阿部 麻美 公開日:2016年5月13日
生まれて始めて味わった〝自分をさらけ出す〟という快感
━━函館に居辛さを感じた上での上京でしたが、東京での学生生活はいかがでしたか?
今泉:何もかもがすごくキラキラしてましたね。ファッションが私より変な人もいっぱいいるし、みんなが人の目なんか気にしないで好きなものを包み隠さずダイレクトに言うことにも驚きました。周りに合わせることなく、それぞれちゃんと主張があって、自分自信を持ってるっていうか。函館ではみんなに合わせて生活しようとしてたから、東京では違うんだーって。自分を出していいんだって思いました。
━━学校へは、思う存分ロリータファッションで?
今泉:行ってましたね、思う存分に(笑)。東京に出てきて、自分って普通なんだなって思っちゃたんですよ。函館にいた時は、周りから浮かないようにしようとしてたけど、東京に着たら自分が全然普通だし、むしろ面白くないなって。
━━「私、浮いてるわ」ってところから、「私、普通なんだ」を更に飛び越えて、「私、面白くないかも」ってところまでいったんですね。すごい振り幅(笑)。
今泉:それくらい衝撃的だったんですよね(笑)。周りがすごく個性的で、性格的にも「なんでも来い!」って感じで。器が広いというか。良くも悪くも人に興味がない場合もあるし。東京の人はなんでも受け入れてくれるんだっていうのが、私にとってはすごく居心地が良くて。「東京大好き!」ってなりました。
━━ファッション系の専門学校とかだと、特にそういう雰囲気は強いのかもしれないですね。学校では具体的にどんなことを勉強していたのでしょうか?
今泉:単に自分が作りたい服を、作りたいように作るのではなくて、デザインのコンセプトを決めて制作するということを学びました。単純にテクニックを習うのではなくて、アプローチの仕方を含めた〝デザイン性〟が求められるというか。そういうことを勉強していくうちに、「ファッションって、自分が思ってたよりも深いな」って思うようになって、ますます好きになっていったんですよね。
だから、授業以外でも朝から晩までずっと学校にいて、服を作ってました。
━━表面的な部分ではない、ファッションの真髄に触れたって感じですかね。それで、卒業後もそのままファッションの道に進もうと。
今泉:そうですね。ファッションを辞めて、別の道に進む同級生もいたんですけど、私はやっていこうと思って。最初は就職したんですよ。ちょっと焦ってた部分もあって。
━━「焦ってた」というのは?
今泉:「卒業して、私どうなるんだろう?」って。周りがどんどん就職先とか決まっていく中で、焦っちゃって。当時から、自分のブランドをやりたいっていう目標はあったんですけど、でもそれをどう形にしたらいいかわからなくて。安定した企業に入った方がいいなのかなって思っちゃったんですよね。
それで、卒業する前からバイトとして入って、そのまま入社って流れだったんですけど、自分らしくない服を着たり、販売したりってのが思いのほか苦痛で(笑)。髪の毛の色を暗くしなきゃいけないのとか(笑)。4月に入社式があったんですけど、「入社しちゃったら辞めれないな」って思って、その前に辞めたんです。
ちょうどそのタイミングで当時のバンタンの先生から「パルコでブランド出店やらないか?」って声をかけてもらって。挑戦するいい機会かなーって思って、そっちに打ち込むことにしました。
━━実際、パルコに自分のブランドとして出店してみた感想はいかがでしたか?
今泉:すごく嬉しい気持ちでいっぱいだったんですけど、現実は厳しかったです。自分が作る服が喜んでくれるお客さんもいたんですけど、「何コレ、すごい服だねー」って冷ややかに言う人も多くて、ちょっと辛かったですね。
━━思い描いてた通りにはいかなかったと。そこで辞めようっていう気持ちにはなりませんでした?
今泉:ならなかったです。自分のやりたいことを表現して、人に渡せる場を与えてもらえて、辛いながらもすごく楽しかったので。次もきっとあるって信じて、次はどんなものを作ろうかって考えながらやってましたね。
━━実際に次の機会は?
今泉:最初に出させてもらったのが6月で、次は9月に出店しました。その時に、スタイリストの人が来てくれて、服を借りたいっていう話になったんですよ。
━━それはテレビとか雑誌の衣装として?
今泉:そうですね。それで、きゃりーぱみゅぱみゅさんがスペースシャワーTVでトップスを着てくれたり、はるな愛さんがテレビで着てくれたりして。
━━すごい! それはかなり反響もあったんじゃないですか?
今泉:当時は、通販サイトもHPもなかったので、反応はわからなかったですね。私としても、けっこう突然のことだったので、そういう準備が追いつかなくて。ただ、家族とか地元の友達からの反響はすごかったです(笑)。
━━そのスタイリストの方とは、その後も付き合いを?
今泉:私、一度服作りを中断してたんですよ。そこからは、お付き合いもなくなりました。
━━服作りを辞めちゃったんですか? ブランドも順調に滑りだしたのに、どうしてまた?
今泉:お母さんが病気になっちゃって。けっこう重たい病気だったので、函館に帰ってたんです。
ちょうど、期間限定のショップの出店が決まってたタイミングだったので、「出したいけど、どうしよう」って思い悩んでたんですよ。よく役者さんとかで、親が病気になった時、しっかりプロ意識を持って仕事を優先するみたいな話ってあるじゃないですか。だけど、その時に「お母さんに会えなくなったらどうしよう」って真剣に考えて、私は仕事を優先するのは無理だなって思ったんです。服作りは、自分が頑張っていればまたチャンスが巡ってくると思うけど、家族との時間は限られているので、そっちを優先したんです。
その頃は、一回東京を離れて、函館に帰ってこようと思ってて。その方がちゃんとお母さんの介護とかもできるし。それをお父さんに言ったら、「服作りを続けて欲しい」って言われたんですよね。テレビで私の服を見た時に、すごく嬉しかったんだーって言ってくれて。それで、ちゃんと続けようって思ったんです。お父さんとお母さんのためにも続けようって。それが親孝行なんだって思えるようになったんですよ。
━━そうかー、そこでも家族に支えられたんですね。
今泉:お陰様で、お母さんはもう元気なんですけどね!
しかも、ありがたいことに、一緒に出店してた友人が「マディの服もショップに置こう!」と声をかけてくれて、顔は出せなかったんですけど期間限定ショップにも参加することができたんですよね。