昨年11月に函館市谷地頭町でカフェ『classic』をオープンさせた近藤伸さん。東京で生まれ育った彼は、「小さい頃からずっと東京が嫌いだった」といいます。東京で消費されているものが、東京で生産されたものではないことに〝違和感〟を覚えた近藤さんは、都内で10年間経営していた飲食店を閉め、函館に移住。地域の食材や環境と向き合いながら、〝違和感〟のない暮らしを堪能しています。外の街から移住してきたからこそ見えた函館の魅力や物足りなさ、東京での暮らしとの違い、そして街と店の関係性などを語っていただきました。
取材・文章:阿部 光平、撮影:妹尾 佳、イラスト:阿部 麻美 公開日:2016年1月8日
勉強よりも〝手に職〟を
━━小さい頃から東京が嫌いだったというお話でしたが、実際、当時はどのような生活をしてたのでしょうか? 北海道で生まれ育った僕としては、東京の子どもがどんな風に遊んでいるのか具体的なイメージが湧かないんですけど。
近藤:地元は中野区の南端なんですけど、ずっとそこで暮らしてました。小学生の頃とかは、普通に校庭とか公園で遊んでましたよ。あとはマンションでかくれんぼしたりとか。
━━「ちょっと渋谷に行こうぜ!」みたいなこととかはないんですかね?
近藤:小学生とかだとまだないですね。ほんと自分の近所だけで遊んでる感じでした。あとは、本当に勉強が嫌いで。中学までは義務教育だから仕方がないけど、どうやったら高校に通わなくて済むかってことを真剣に考えてました(笑)。
━━根っからの勉強嫌いだったんですね(笑)。そういう気持ちで通っていた中学はいかがでした?
近藤:まぁ、フツーの中学生でしたね。陸上部に入ってたんですけど、そんなに熱心に打ち込むわけでもなく。ただ、その頃には料理に興味を持つようになっていたので、家とかでご飯を作ったりしてました。
━━料理に興味を持ったきっかけは、親御さんの影響ですか? それとも外に食べに行く機会が増えて、食事に関心を持つようになったとか。
近藤:父親が、お好み焼き屋を経営してたので、飲食業ってのは身近だったんですよね。あとは、ちょうど中学の時に従兄弟がイタリアンの道に進んで、ペペロンチーノを食べさせてくれたんですよ。当時はまだパスタといえばナポリタンくらいしか知らなかったんで、「こんなものがあるのか!」と衝撃で。それで僕もイタリアンの道を志すことになったんです。
━━じゃあ中学生の時の夢は、イタリアンレストランのシェフだったんですね。
近藤:そうですね。料理だったら高校行かずに、15歳くらいから現場で仕事させてもらえるだろうという考えもあって(笑)。
━━本当に勉強が嫌だったんですね(笑)。どうしてそこまで嫌だったんですか?
近藤:あまり意味を感じなかったんじゃないですかね、たぶん(笑)。勉強よりも技能とかを持ってた方がいいなぁと思ってたんで。
━━では、高校は行かずに、15歳でそのまま料理の世界に?
近藤:いや、料理をやっていくにしても調理師免許が必要だってことがわかって…。そのためには、高校の後に専門学校に行かなきゃいけないってのを知らされたんです。
だけど、本当に勉強が嫌だったので、最短で調理師免許を取得できる方法を調べてたら、調理科がある高校が存在することがわかったんですよ。
━━高校三年間で調理師免許を取れちゃう学校があったんですね。
近藤:はい。だけど、そこに行くためにも受験はあるわけじゃないですか。勉強が苦手だったんで「まずいな」と思って。それで、考えた結果、推薦をもらうために生徒会長になったんです。
━━受験せずに進学するために生徒会長に? 勉強しないことに対する執念がすごいですね(笑)。
近藤:勉強から解放されたかったんですね、きっと(笑)。それで無事に推薦をもらって、調理科がある高校に進学しました。
━━目論見通りですね(笑)。その高校は実践的なことだけを学ぶんですか?
近藤:一応、高校なので国語、数学、理科、社会、英語みたいな授業はありました。ただ、数学もⅠまでだし、物理もないっていう、最低限の勉強だけでしたね。
━━それ以外の時間は実際に料理を作ることに割くと。
近藤:そうですね。一週間勉強の週があって、次の一週間は調理実習だけっていう、そんな感じでしたね。
━━ずいぶん極端なカリキュラムですね(笑)。「よっしゃー週間勉強やったから、来週は調理漬けだー!」みたいな。
近藤:そんな感じでした(笑)。
━━そういう学校を望んで行ったからには、学校生活は楽しかったですか?
近藤:そうですね。料理に関しては、学校の他にファミレスでバイトもしてたんで、社会を覗くこともできましたし。
━━高校生くらいになると行動範囲も広がるし、バイトとかしてると前よりお金も使えると思うんですけど、学校以外のプライベートの時間はどういう風に過ごしてましたか?
近藤:週5日は部活で、週2回はバイトをしてたんで、ほとんど遊ぶ時間はなかったですね。バイト代も部活の道具に使うくらいでした。