『jam』と『peeps hakodate』という、函館の人なら一度は見聞きしたことがあるだろう2つの地域情報誌を制作してきた吉田智士さん。現在編集長を務める『peeps hakodate』は、『日本タウン誌・フリーペーパー大賞2014』で最高賞の大賞に輝き、今ではローカルマガジンという枠を超え、全国的にも高い注目を集めています。
1996年から雑誌編集者としてのキャリアをスタートさせ、以後20年間に渡って函館の街や人を見つめてきた吉田さんは、誰よりも敏感に時代の変化を感じてきた方だといえるでしょう。そんな吉田さんに、知られざる『peeps hakodate』の誕生秘話や、函館に〝地域情報誌〟という文化を根付かせた『jam』の現場、いつまでもあるとは限らない〝今の函館の景色〟などについて伺いました。
取材・文章:阿部 光平、撮影:妹尾 佳、イラスト:阿部 麻美 公開日:2016年7月15日
自分の〝いい加減さ〟に気付かされた小樽への進学
━━小さい頃からよく雑誌を読まれていたというお話がありましたが、吉田さんはどのような少年時代を過ごされていたのでしょう?
吉田:地元は花園町で、小・中学校は深堀でした。小学校2年生くらいから『週刊プロレス』を買ってたんですけど、その頃には市民体育館にある柔道の練習場に行って、友達とプロレスとかやってましたね。ダンボールでチャンピオンベルト作ったりして(笑)。
当時は、金曜日の夜8時からテレビでプロレスが放送されていたので、周りもみんなプロレスに夢中だったんです。函館でも毎年必ずプロレスの興行があって、初代タイガーマスクが来たときなんかは、市民体育館の入り口から湯の川の生協まで行列が連なってたのを覚えています。湯の川にタワーホテルってのがあったんですけど、そこがレスラーの定宿だってわかってたんで、サイン色紙を持って出待ちしたりもしてましたね(笑)。
━━すごい行動力(笑)。本当に、プロレスに夢中な少年だったんですね。
吉田:あとは映画もよく見に行ってました。小3くらいからは一人で映画館に行ってて、グレムリンとか、グーニーズとか、ベストキッドとか見てましたねー。
中学は野球部だったんですけど、映画クラブにも入ってました。当時は、映画を見ながら野球をするっていう生活でしたね。
━━プロレス、野球、映画と多方面に興味関心がある中で、将来は何をしたいというような考えってありましたか?
吉田:その頃は、映画の宣伝マンになりたかったんですよ。
━━宣伝マンですか? 作り手ではなく?
吉田:映画は観るもんだって決めてたというか、作るのは無理だと思ってましたね。
━━中学生にしては、かなり現実的な夢ですね(笑)。
吉田:ですよね(笑)。それか、映画の予告編を作る人間になりたいと思ってました。夢といえば、そのどちらかだったんですよ。我ながらニッチな夢を描いてたなと思いますけど(笑)。
とにかく映画に関わりたいっていう気持ちがあって、単純に製作ってことではなく、映画を人に届ける過程に携わるような仕事をしたいと思ってたんですよね。はじめから「作る側になるのは絶対に無理だ」っていう諦めの気持ちがあったので、宣伝とか予告編ってところに目が向いたんだと思います。
なんか変に現実が見えすぎちゃってたところがあって、何に対しても「いや、無理だべ」みたいな気持ちがあったんですよ。映画の仕事もそうだし、高校も野球部だったんですけど甲子園目指すとかいう気持ちも持ってなかったですね。とにかく、夢を追いかけるような人間ではなかったです。
━━実際、高校を卒業してからは、どのような道に進んだのでしょうか?
吉田:高校は、進路も何も決まらないままで卒業したんですよ。本当にやりたいことがなくて。それで、父親に「とりあえずみたいな感じで進学したり、就職したりってことに抵抗があるんだわ」って話したら、「じゃあ、やりたいこと見つかるまでなんかバイトでもやればいいべや」って言われて。
━━かなり理解のあるお父さんですね。
吉田:まあ、今考えると、言いたいことはいっぱいあったと思うんですけどね。それで、高校卒業後はバイトをいくつか掛け持ちしながら生活してて、19歳のときに「店舗のデザインとか面白そうだなー」ってなんとなく思うようになって、小樽にあった商業建築系の学校に行くことを決めたんです。
━━実際、どうでした? 小樽での生活は?
吉田:もう初日とか、二日目で嫌になっちゃって(笑)。その学校って、生徒が30人くらいしかいない少数制のとこだったんですよ。その分、ちゃんと学びたいって人が集まっている学校で。だけど、私はけっこういい加減な気持ちで行っちゃったもんだから、ついていけなかったんですよね。ただ遊びに来た人と、働きに来てる人くらいの差を感じてしまったんです。
━━志の違いをまざまざと見せつけられてしまったわけですね。
吉田:そうなんですよ。そんなときに、父が30年以上勤めていた会社を辞めることになったんです。喧嘩別れみたいなかたちだったので、退職金もまともに出ないような状態だったんですけど、それを知って「こんな気持ちで専門学校に行ってていいのか?」って思うようになって。要は、そのことですごく冷静になれたんですよ。
━━それで、どういった決断を?
吉田:そのときはまだ研修期間で、今辞めればお金も戻って来るという時期だったので、すっぱりと専門学校を辞めることにしました。そしたら本当に目が覚めたというか、「なんでここに行こうと思ったんだっけ?」って思いましたね(笑)。
━━ははは(笑)。でも、辞めるというのも、パワーがいる決断ですよね。短い期間だったとは思いますが、地元を離れてみて感じたことなどはありましたか?
吉田:離れたことについては、出来れば早く親元離れて暮らしたいって思ってたので楽しかったんですけど、やっぱり初めてリアルに親の懐事情みたいのを考えたってのは貴重な経験だったかもしれませんね。
街って部分でいうと、函館を離れたいと思ったことはなくて、たまたま学校が小樽だったから行っただけの話なんで、特に小樽に魅せられたとかはなかったです。
ただ、他の街をほとんど知らないってのは、未だにコンプレックスではあるんですよね。この仕事をしてて、函館をほとんど出たことがないっていうとビックリされることも多くて。周りにはいろんなとこに行ってる人とか、様々な世界を見てきた人が多いので、そういう部分でのコンプレックスは少しありますね。
━━なるほど。それからは、函館に戻ってきて、映画技師をされてたんですね。
吉田:戻ってきてからはレンタルビデオ屋の店員をしながら、並行して単発のバイトをやってて。その後ですかね、映画技師になったのは。