加藤 駿さん(32)
小学生の頃に父親が借りてきた本を見た瞬間に、建築家になることを決めたという加藤駿さん。その夢を叶えるために、建築系の大学、アトリエ設計事務所、ゼネコンとステージを変えながら、地元・函館での独立を目指しています。
建築家をアーティストと捉え、街や人が賑わう社会をデザインしていきたいと語る加藤さんに、月収が10万円に満たなかった建築家見習いの暮らしや、建築が街や人に及ぼす影響、函館の変化の中に見る〝まちづくりの下手さ〟などを伺いました。
取材・文章:阿部 光平、撮影:馬場 雄介、イラスト:阿部 麻美 公開日:2016年10月12日
多感な時期にもブレなかった建築家になるという夢
━━小学生のときにフランク・ロイド・ライトの建築と出会い、そこで建築家を夢見るようになったということでしたが、加藤さんはどのような幼少期を過ごされていましたか?
加藤:1歳くらいの時に高丘町に引っ越してきたんですけど、その前は西部地区の方に住んでたみたいです。その頃の記憶はないんですけど、家はまだ残っていて、今では文化財になってるらしいです。
小学生の頃は、普通に友達とサッカーとかやって遊んでましたけど、あとは音楽とかファッションに興味がありましたね。通ってた塾の下の階が古着屋で、よくそこに行ってました。
━━そういう多感な時期に、音楽やファッションに夢中になっていても、建築家になるという夢がブレることはなかったんですか?
加藤:ブレなかったですね。当時は「建築家になりたい」って漠然と思ってるだけで、実際に行動に移したりはしてなかったですけど、他にやりたいことができたり、進路に迷うようなことはなかったです。
━━高校はどちらへ?
加藤:中部高校です。
━━それは、その先に建築系の大学に行くことを見据えて進路だったんですか?
加藤:学力的には中部かラ・サールって感じだったんですけど、ラ・サールを受験した時のメガネ率の高さに引いちゃって(笑)。音楽とかファッションとか、話が合わないだろうなと思って。それで中部に行きました。
━━実際、中部での高校生活はいかがでしたか?
加藤:中学の友達とは感覚が違う人達が多かったですね。先生も面白い人が多かったです。服や髪型も自由だったし、そういう点では良かったなって思います。
━━「中学の友達とは感覚が違った」ということですが、逆に中学生の頃はどんな学生生活を送っていたのでしょう?
加藤:中学の頃は、友達の7、8割がヤンキーで、「自分はちょっと違うんじゃないかな」という感覚を抱いていたんです。最初は「悪いことしたら面白い」みたいな感覚もあったんですけど、「自分はそういうタイプでもないしなぁ」って思うようになって。
東京に来てみて、こっちの子どもっていろんなコミュニティがあるし、選択肢が多くていいなって感じますね。函館みたいな田舎では、選択肢が少なすぎて、すごく不自由だったというのは、今になって思います。
━━建築家を目指すことが決まっている学生生活の中で、モチベーションとか目標とかは、どこにあったのでしょう?
加藤:モチベーションっていうモチベーションはあんまりなかったんですけど、建築やるには大学行かなきゃいけないし、函館にこのままいるのはありえないし、ポジティブじゃないかもしれないですけど、「今の環境から出たい」っていうのがモチベーションだったかもしれません。
━━「函館にこのままいるのはありえない」という思いは、どこから生まれたのですか?
加藤:不自由な感じがしたからですね。僕が函館にいた頃って、東京とかいろんな都市に憧れてましたけど、都会にたまに遊びに行って何をしてたかというとCDを買ったり、服を買ったり、それだけなんですよね。それって、今の時代になったらもう「アマゾンでいいじゃん!」って話なんですけど、当時としては欲しいものとか情報が手に入らないことに不自由さを感じていました。
もうひとつ、田舎って感覚を共有できる相手に出会えることがほとんどないんですよね。建築の話なんてできる相手はいないですし、その辺が大きな理由だったと思います。
━━それは、外に行くことで解決するという考えだったんですか?
加藤:その頃は、そう思ってましたね。でも実際、大学に入ると、建築とかデザインが好きな人がたくさんいて、徹夜して作品を作ったりとか、そういう部分ではすごく意識を共有できている感覚があって楽しかったです。熱中できる対象もあるし、その環境もあったので。