『tombolo』が体現する、パンを介した新しい場作り


━━最初に苧坂さんが経営されているパン屋さん『tombolo』について教えて下さい。どういったコンセプトでパン作りをされているのでしょうか?
苧坂:パンは、なるべくシンプルに作ろうと思っています。素材には、自家製天然酵母、小麦、塩、水のみを使っています。
他のパン屋さんを悪く言うわけじゃないんですけど、大きいお店ってたくさん作って、残ったら捨てちゃったりするんですけど、それにすごく違和感あって。うちはオープンして7年目なんですけど、パンは一個も捨てたことがないんです。最初からそういうパンにしようと思って始めたので。
店のことでいうと、うちはパンを乗せるトレーがないんですよ。初めてのお客さんは戸惑われるんですけど、そうすると喋らなきゃいけない状況になるんですよね。そうやって、意図的に会話が生まれる仕組みを作っています。置いてるパンも、普通のメロンパンとかアンパンとかではないし、パン屋さんだと思って入ってもトレーがないっていうところで、まずコミュニケーションが生まれるんですよね。そういう店づくりを意識しました。

━━単純に商品を売り買いするのではなく、お客さんと面と向かって商売したいという思いが根本にあったと。
苧坂:そうですね。パン屋だし、もちろんみなさんパンを買いに来てくださってるんですけど、パンは目的じゃなくて手段というか。パンを介して、来てもらうことに大きな意味があると思っています。
うちって、たぶん他のパン屋さんより滞在時間が長いんですよ。ササッと買えないから。会話もしなきゃいけないし。そういうのが面倒くさい人は、来づらいと思うんですけど。

━━言い方は悪いですけど、ある程度お客さんを選ぶというか。
苧坂:効率的に販売するのが好きじゃないから、結果的にそうなったというのはありますね。

━━西部地区でお店をやろうと思った決め手は何だったのでしょうか?
苧坂:懐の問題ですね(笑)。うちの親父が焼き物屋で、この場所はもともと陶器のギャラリーとして使われてたんですよ。今も半分はギャラリーになってるんですけど、最初はとにかくお金がなかったので、親父に頼み込んで半分でパン屋をやらせてもらえないかって。だから、西部地区にこだわっていたというよりは、最初はここしか選択肢がなかったというのが実情です。銀行で借りるにしても、全然信用がなかったので。
だから、本当は2~3年やったら函館を出ようと思ってたんですよ。本州とか九州とかに土地を探しに行ったりもしていて。

━━今はもう函館でやっていこうという意思が固まってるんですか? そのきっかけは何だったのでしょう?
苧坂:一番のきっかけは、『箱バル不動産』というチームで一緒に活動している建築士の富樫雅行さんの一言だったんですけど、「西部地区を出たら、日本ってどこ行っても同じ景色じゃない?」って言われて。最初は、そう言われてもピンとこなかったんですけど、いろんな場所に行って帰ってくると、やっぱりすごく落ち着くんですよ。西部地区が。

━━それは、家があるからとか、友達がいるからという理由ではなく?
苧坂:街に対して、そう思います。気づいたら、もうすっかり「俺の街!」みたいな感覚になってたんですよね。ここで、自分のパン屋をやっていこうと。
こういうパン屋って田舎に行きがちなんですよ。嫌な言い方になりますけど、田舎って付加価値なんですよね。「こんなところで、やっていけんの?」とか「こんな田舎でやっててすごいね!」っていう付加価値がプラスされて、お客さんが足を運んだりするんですよ。週末に、わざわざ時間かけて。
だけど、僕は、こういうパン屋こそ街中にあったほうがいいと思ってます。パンが目的ではなくて手段という意味でも。特別なものではなく、日常にあるようなお店を目指しているので。
西部地区って、函館市内の人でも、観光地として来るような場所じゃないですか。それをちょっと変えたいっていう思いもあって。もうちょっと日常に寄せたいなって。市内で別の地域に住んでいる人達にも、「西部地区は自分達の街だ」とか「tomboloは自分達のパン屋だ」と言ってもらえるようになりたいなと思っています。



━━パン屋さんという仕事に出会ったのは、どのようなタイミングだったんですか?
苧坂:大学生の時に、就職活動でめちゃめちゃ足掻いてたんですよ。周りが就活している中で、自分は何も決まってなくて「これは、やばいな」って。だけど、ある時に諦めちゃったんですよね。
僕、逃げる癖みたいなのがあって。最近、それはサッカーをやってた影響なんじゃないかと思うようになったんですけど、物事を俯瞰で見るというか。引いた目でゲーム全体を見るポジションだったので、その癖なのか、逃げる美意識じゃないですけど、近くにあるものを一歩引いて見たいタイプなんですよ。就職活動でやばいなって思ってた時も、パッと一歩引いて、親父のことを思い出したんですよね。

━━親父さんのことと言いますと?
苧坂:親父は焼き物屋なんですけど、物心つく頃からだいたい家にいて、学校から帰ってきても家にいて、何やってるかわからないんですよ(笑)。普通のお父さんだったら会社に行ってていないような時間にも普通に家にいて、考え事したり、溶接したり、よくわかんないけど穴掘ったりとかしてて。焼き物の発想が浮かんで、作るのは夜中だったので、僕はもう寝てて知らなかったんですよね。だから、大人ってそういうもんだと思ってたんです。だいたい家にいて、昼間は寝てるんだって(笑)。
僕、生まれは函館なんですけど、小学校6年生まで栃木県の益子にいたんです。益子って、周りが焼き物屋か農家しかないみたいな、ちょっと稀な街なんですよ。伝統的な焼き物の街っていうよりは、若い作家が新しいものを求めてやってくる土地で、アーティストがたくさんもいるんです。そういう土地だから、ある意味ダメな大人がいっぱいで(笑)。親父のとこに遊びに来る焼き物屋さんとかも、昼に来て夜までずっといて、バイクいじったりとかしてて。そういう姿を見て、「大人ってめっちゃ楽しそう!」、「俺も学校行かないで大人になりたいわ!」ってずっと思ってたんですよね。就活で足掻いてる時に、ふとそのことを思い出して、もう諦めちゃったんです。

━━自分が目指してた大人は、こっちだったと(笑)。
苧坂:そうですね(笑)。そこで初めて自分で物作りをして生きていくという意識が芽生えて、その頃に今の奥さんが連れて行ってくれたのが、代々木八幡にある『ルヴァン』っていうイケてるパン屋だったんです。
それまで飲食にはあまり興味がなかったんですけど、そこで働いていた人達が、同世代なのに、すごくプロフェッショナルに見えたんですよね。「出遅れた!」って感じました。それで、人の募集はしてなかったんですけど「雇ってもらえないですか?」って頼んで、働かせてもらうことになったんです。

━━同世代で、すでに物作りで生きている人がいることにハッとさせられたわけですね。それで、その店でパンの修行を始めたと。
苧坂:そうです。でも、自分の中で修行は1年間って決めてたんです。

━━なぜですか?
苧坂:その頃、もう東京を出たくてしょうがなかったんですよ。目まぐるしい生活にけっこうあっぷあっぷで。大学にいる間から「もう東京はいいかな」って思ってて、1年間京都に行ったり、バックパックで旅とかしてたんですけど。いよいよ働き出した時に、修行は1年間にしようと。1年間で覚えることは全部叩き込もうと思って。
1年間だけって思うと、覚えることがたくさんあるから、すごく入ってくるんですよ。たぶん5年とかいたら、もう自分の店はやらなかったかもしれないですね。周りからは、「1年で独立は難しいだろう」って言われたんですけど、「いや、いいんです」って言いながらやってました。

━━それで、実際に1年後には、函館に戻ってきて独立したんですか?
苧坂:そうです。東京にいる間に、子どもが生まれることがわかったんです。それで、ますます東京では無理だな思って。それまでは2人で働いてたらよかったんですけど、僕は給料が15万くらいで、家賃が10万とかだったので、これはどう考えても生活できないなと。それで、しばらく函館で世話になろうという気持ちで戻ってきました。

━━自分のお店をオープンするにあたって、まず店名を考えると思うんですけど、「tombolo」という名前には、どんな由来があるんですか?
苧坂:陸繋砂州のことを地理用語で「トンボロ」って言うんですけど、もともと函館って陸繋砂州っていって、島があって、本土があって、その間に波の作用で砂が運ばれて繋がった地形なんですよ。別個にあったものが何かの作用で繋がるみたいな、そういう店になれたらいいなと思って「tombolo」という名前にしました。全然会うこともなかった人が、うちのパンを介して繋がったりとか、あわよくばうちで知り合って人同士が結婚してくれたら嬉しいなって。そしたら、パンカットとかするのになって思ってるんですけど(笑)。

━━パンカット! いいですね(笑)。先ほど、パンは目的ではなく手段だという話がありましたが〝場作り〟みたいな意識は店名にも込められてるんですね。
苧坂:まぁ、細かい部分は後付けだったりするんですけどね(笑)





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