■函館に〝地域情報誌〟という文化を根付かせた『jam』の現場
━━吉田さんが編集者として働き始めたのはいつからだったんですか? そのきっかけは何だったのでしょう?
吉田:もともと私、函館東宝会館で映写技師をやってたんです。19歳から21歳までの2年間は。昔から、とにかく映画関係の仕事がしたかったので、最初は楽しかったんですけど、暗い映写室の中に10時間とか12時間とかずっと缶詰状態でいると、さすがに気が滅入ってくるんですよ(笑)。喋る相手もいないし、必然的にひとりで考える時間が増えるから、「俺このまま年取っていくのかな」とか考えるようになっちゃって。
それで、とりあえず何も考えずに辞めたんですけど、その頃に友達の家で『jam』に出会ったんですよ。当時、函館の雑誌なんてなかったから気になって、パラパラとめくってみたら、めちゃくちゃクオリティが低くて(笑)。「全然面白くないのに、これで100円?」みたいな(笑)。で、雑誌の後半にスタッフ募集が載ってたんですけど、何の経験もないくせに「自分なら変えられる」とか思って応募したんです。そしたら、採用になって。そこからですね、編集者として働くようになったのは。
━━若者ならではの根拠のない自信ってやつですね(笑)。初めて見たときにクオリティの低さを感じたということは、もともとかなり雑誌を読まれてたんですか?
吉田:雑誌は、小さい頃からよく読んでましたね。多分、レギュラーで読んでたのは10誌くらいありました。とにかく、雑誌にはお金をかけてましたね。
━━ちなみに、当時はどんな雑誌を購読していたのでしょうか?
吉田:とりあえず、毎週買ってたのは『週刊プロレス』ですね(笑)。あとは、今も買ってるんですけど『映画秘宝』とか『Cut』。プロレスと映画の雑誌を、それぞれ2、3誌は買ってました。それから、『宝島』や『POPEYE』とかも買ってましたね。買ってきてパラパラめくる時間とか、本棚が雑誌で埋まっていく感じとか、とにかく雑誌と接することのすべてが好きだったんです。
その頃、雑誌から受けた影響というのは、その後の雑誌作りにも強く反映されていますね。
━━例えば、どのような影響ですか?
吉田:例えば、『週刊プロレス』の記事って署名原稿なんですよ。記者の名前が記載されている代わりに、すっごい偏ったことが書いてあったりするんです。記者の思想がモロに出ているというか。
編集長は、ターザン山本っていう人だったんですけど、彼はそのことを良しとしてたんですよね。「うちの雑誌は、思想の雑誌だ」って。それで、最盛期には50万部を売ったんです。週刊誌で、プロレス雑誌で、50万部ってあり得ない数字なんですけど。
その時代に思いっきり『週刊プロレス』を読んでて、「文章って、こうやって書いてもいいんだ」って思ったんですよ。書き手の立場さえはっきりさせとけば、主義主張を書いてもいいし、そっちの方が面白いやって。『jam』を作ってた頃は、そういう影響をモロに受けてましたね。
『peeps hakodate』は、そこまで全面的に主義主張を出してるわけではないんですけど、大門のアーケードが撤去されるってことになったときに、十字街に残っている古いアーケードを取り上げたんですよ。どういうことかというと、私達にとっては大反対だったですよね、大門のアーケードを撤去するっていうのは。老朽化とか、現実的な問題は置いといて、あれなかったら大門じゃなくなるよみたいな気持ちがあって。だからといって、「撤去反対!」って叫ぶのは媒体のトーンに合わないので、十字街のアーケード通りを取り上げることで、「せめてこれは残してほしい」という主張を込めたんです。「こいつらは、こういうことを言いたいんだな」っていうのを、うっすら感じ取ってもらえればいいなって程度の主張なんですけど。
━━『jam』では、どのような部署で、そんな業務を担当していたんですか?
吉田:今考えると、どうかしてたなって思うんですけど、『jam』って分業制じゃなくて、全員が取材、撮影、執筆、営業までやるというスタイルだったんですよ(笑)。
本来の雑誌作りの手法からすると異質というか、アウトなんですけど、うまく回ってる時っていうのは、エネルギーでどうにかなっちゃうんですよね。
━━一冊を何人くらいで作ってたんですか?
吉田:その時代によって人数は変わるんですけど、最小で3人ですね(笑)。
━━えぇー! あれって月刊誌ですよね?
吉田:はい。ページ数でいうと、最大で250ページありました。さすがに、250ページ作ってたときは、スタッフが7、8人いましたけど。
━━吉田さんが入ったのって、創刊から何年目くらいのタイミングだったんですか?
吉田:創刊が96年の4月で、私が入ったのが8月でした。
━━ということは、ほぼ立ち上げメンバーに近い状態だったんですね。創刊時の『jam』って、どんな雑誌だったのでしょう?
吉田:最初の頃は、中古車情報誌に街の情報をチラッと載せた程度の作りだったんですよ。『jam』というネーミングの由来については諸説あって、「Japan Auto Magazine Hakodate」だという説と、「ジャムセッション」からとったという説、当時ブレイクしていた「JUDY AND MARY」にあやかったという説の、3つがあるんですよね。たぶん、「Japan Auto Magazine」の略称だと思うんですけど。
ただ、私自身、雑誌を読んでてもまったく車に興味が持てなくて。どちらかといえば、「中古車情報とかどうでもいいや」っていう気持ちがあったので、だったらこういう企画やった方がいいじゃんみたいに勝手なことを言ってました。それが採用されたのかどうかわからないですけど、徐々にタウン誌にシフトしていったという流れでしたね。
━━初めて『jam』を見たときに、「自分なら変えられる」という気持ちがあったとのことですが、それはタウン誌に寄せていきたいという想いだったんですか?
吉田:タウン誌を作りたいって気持ちはありましたね。函館には、こんなに面白いネタあるのに何で拾わないんだろうって思ったりしてたので。
当時はサブカルが好きだったのもあって、サブカルを函館という田舎町に落とし込んだ時にどうなるんだろうってのをやってみたくて、けっこうどうでもいいようなことを一生懸命やってました。『宝島』とかの企画を真似て、大門の古いパチンコ屋で「パ」が抜け落ちたネオンの写真を撮って載せたり、本当にどうでもいいようなネタなんですけど(笑)。なんていうか、遊んでましたよね、誌面で。
━━けっこう自由にやれる媒体だったんですね(笑)。ちなみに発行部数って、どれくらいだったんですか?
吉田:えーと、3万部刷ってて、2万部は売れてました。
━━地方紙で2万部って、すごいですね! 売れ行きもよく、自由なことができる媒体を辞めたのは、雑誌がフリーマガジン化していったのが理由だったとのお話でしたが、もう少し具体的にお訊きしてもよろしいですか?
吉田:私が入社したときは、100円の雑誌だったんですけど、それがページ数を増やして、200円、250円になって、その後のフリーマガジン化の話が出てきたんですよ。その頃は、私ともう一人が共同経営者になってたんですけど、彼がフリー化を推し進めていたんです。だけど、私としてはフリーになったら、もうどうなるか見えてたんですよね。結局、販売収入がなくなったら、その分を広告収入で埋めていかなきゃならないので、自ずと広告ページが多くなり、広告営業する時間が多くなるので、自分達がやりたい企画をやる時間は失われていくわけですよ。
当時の『jam』は、くだらないことをやりつつも、絞めるとこ絞めて、最終的には、街歩きとか店選びに役立つという雑誌になってたんですよね。そういう部分が読者にウケてたのに、広告ばっかりになると、一気にそっぽを向かれるだろうと思って。
━━せっかく自分達が作るものに読者がついてきてくれるようになったのに、それが一気に離れていってしまうんじゃないかという懸念があったわけですね。
吉田:そうですね。クオリティは低いかもしれないけど、雑誌を、読み物を作ってるっていう自負だけはあったんです。だけど、フリーマガジンになったら、広告の寄せ集め媒体でしかなくなるから、もう自分の出る幕はないやって思いました。雑誌屋としては終わりだなと。ただ、方針の最終決定権は、もうひとりの共同経営者に委ねていたので、フリー化が決行されたんです。
最初は、納得はいかないけれども、フリーマガジンになった上で今までの『jam』の体裁を保てるように頑張ろうって思ってたんですけど、結局は気持ちが続かなくて。その時点で、『jam』を作り始めてから15年くらい経っていたので、「もう潮時かな」って思うようになりました。
最後の方は、もはや刷り上がってきたものも見ないような状態でしたね。そうなったらもう終わりですよね。そんなの読んだ人が面白がるわけでもないですし。ページを開いたところで、広告集めで駆けずり回ってるのが見て取れるような、単なる紙の集合体なんですよ。もはや、雑誌じゃないってところまで成り果ててしまったので、やめる決断をしました。
━━それがきっかけで廃刊になったわけですか。
吉田:私が辞めるってなったときに、もう一人の彼も続けられないって判断したのか、2012年12月号で休刊ってことになったんです。
━━なるほど、そして、吉田さんは雑誌業界から離れることを決意したと。
吉田:あのときは、もうこの業界にはいたくなかったですねー。心底、嫌になりましたから(笑)。まぁ、結局4ヶ月後には『peeps hakodate』の準備に取り掛かってたんですけどね。