井の中の野球少年、世界の広さを知る


━━現在の仕事から遡って大学生活のお話までを伺ってきましたが、今度は幼少期のことを教えてください。生まれたのはどちらですか?
太田:産まれたのは函館の古川町ですね。

━━当時のことで何か記憶に残っていることはあります?
太田:古川町には、3歳くらいまでしかいなかったので、生活のことはあまり覚えてないですね。ひとつだけ、ばあちゃんに怒られて、袋に入れられて、そのまま物置に閉じ込められたのは鮮烈に覚えてます(笑)。

━━袋詰めで物置(笑)。そういうインパクトある出来事って忘れないですよね。3歳以降は、どちらに?
太田:そのあとは倶知安ですね。父親が気象台に勤めてたので、引越しが多かったんです。倶知安には幼稚園を卒業するまでいて、小学校からは江差、4年生の時には紋別に引っ越しました。

━━紋別ってまた遠いですね! かなり目まぐるしい少年時代ですけど、野球に出会ったのは、どのタイミングだったんですか?
太田:江差小学校ですね。江差フェニックスっていうチームがあって、そこで野球を始めました。なんで始めたのかは覚えてないですけど。

━━小学校に上がって、野球も始めてってなると、4年生の時の転校は辛かったんじゃないですか?
太田:嫌でしたねー。転校先に行くのも緊張しました。毎回毎回。
ただ、新しい学校に行くと、その都度「今回はこういうキャラでいってみよう!」みたいなことをしてました(笑)。次はちょっとクールな感じでいってみようとか(笑)。でも、だいたい一週間くらいですると、素がバレてくるんですよね。そこから、「結局キャラを作っても意味がない」ってことを学びましたね(笑)。
あとは、転校が多かったおかげで、新しい環境に入っていくことに対しての抵抗はなくなりました。未だにそういう性格はあるかなぁ。そういう点では親に感謝してます。ただ、あちこち引っ越してると、小学校からの幼馴染とかがいないので、そういう面では寂しいなとも思いますけど。

━━僕も転校が多かったので、どちらの気持ちもわかります。幼馴染がいないのって寂しいですよね。江差から紋別に行っても野球は続けてたんですか?
太田:紋別での野球はけっこう輝かしかったですよ(笑)。一応、4番でキャプテンをやってて、全道大会にも2度行きました。どっちも1回戦負けでしたけど(笑)。



━━中学校も紋別ですか?
太田:中学校からは、また函館で、深堀中学校に通ってました。当時の深中は、歩くとミシミシいうような古い木造の校舎で、冬とかは、もう極寒でしたね(笑)。ヒーターとかなかったので、教室にはストーブがありました。薪だったかな?

━━僕が通ってた戸倉中もストーブありましたよ。さすがに薪ではなかったですけど(笑)。当時の深中野球部は強かったんですか?
太田:深中は先生が厳しくて、練習もすげぇキツかったですね。実力的には、道南大会まではいくけど、全道には届かないってくらいでした。
ただ、紋別ではキャプテンで4番だったけど、函館に来たら超足早い奴もいるし、肩強い奴もいるし、井の中の蛙だったんだなーってことを痛感しました。将来はプロ野球選手になりたいと思ってたけど、これはちょっと遠いなとも感じましたね(笑)。だけど、高校でも野球は続けてました。

━━高校はどちらに?
太田:野球がまずまず強かったので、とりあえず北高に行こうと思ってて、願書も出したんですよ。だけど、急に気が変わって、冬休みに学校まで願書を取りに行ったんです。で、先生に「やっぱり、中部にします!」って。「いやいや、やめとけ」って言われましたけどね(笑)。

━━北から中部だと、学力的には二段階くらい上がってますもんね(笑)
太田:そうそう(笑)。なんでそう思ったかっていうと、中部の野球が強くなってるというのを聞いてて。プロ野球選手は無理だと思ってたけど、甲子園には行きたかったので、野球が強い学校に行きたかったんです。それから、塾ですげえ勉強頑張って(笑)。

━━結果は実ったんですか?
太田:受かりましたねー(笑)。

━━おー!お見事(笑)。では、中高生の時は、とにかく野球中心の生活を送ってたわけですね。
太田:そうですねー。あとはよく海に行ってました。部活終わって、そのまま海行って、ユニフォームのまま泳ぐみたいな(笑)。

━━絵に描いたような青春ですねー(笑)。
太田:あと〝語る〟って流行らなかったですか? お菓子持って、海行って、「ちょっと語んねー?」みたいな(笑)。

━━あったあった! ありましたねー、〝語る〟って文化(笑)。
太田:何だったんですかね、アレ(笑)。そういうこともよくしてました。楽しかったですねー、海。

━━肝心の野球はいかがでしたか?
太田:中部は市内でも割と強い方で、一個上も、僕らの代も全道大会まではいったんですよ。まぁ、僕らの時は一回戦で札幌第一とやって、14対1とかでボロ負けでしたけど。

━━やはり遠いですねー、甲子園は。
太田:遠かったー(笑)。やっぱ私立は強いなと感じましたね。でも、全道大会に行けたのはすごく良い思い出です。

━━高校生って、かなり多感な時期だと思いますが、野球以外にはどんなことに興味関心がありましたか?
太田:中部に行って、衝撃的だったのが、とにかくもう自由なんですよ。私服だし、髪染めてもいいし、ピアスもOKだし、法律に反すること以外は大抵大丈夫みたいな感じで。中学まではボタンを変えただけで怒られるような生活だったので、そういう自由さは衝撃的でしたね。
それで、服とかに興味を持つようになっていったんです。それまではアメリカ屋とかで服を買ってたんですけど、五稜郭にあった『アメリカンシュガー』っていう古着屋さんに通うようになって。そこで、店長をしていたギシさんって人と出会ったのが、僕の人生のターニングポイントになりましたね。

━━具体的にはどのような影響を受けたんですか?
太田:なんだろ、まず置いてある服が面白かったってのがあるんですけど、それだけじゃなくて音楽のこととかもたくさん教えてもらって。それまでは、服にしても音楽にしても、「あいつはコッチ系だよね!」とか「ヒップホップ派、パンク派」って風にカテゴライズして物事を見てたんですけど、ギシさんは海外のアーティストの話をしてたかと思うと、「ミスチルいいよねー!」とか言ってみたりするし、こういう価値観もあるんだなと思わされました。

━━「どっちかが良ければ、反対はダメだ」って考え方ではなく、フラットな目線で物事を判断するという。
太田:そうですね。そういう価値観とか、考え方の部分で受けた影響は、かなり大きくて、未だに自分の根幹にもなっています。





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