■食えない日々の中に差し込んだ独立への一筋の光
━━大学卒業後は、旭川で働き始めたんですか?
富樫:就職は函館だったんですよ。大学に、函館の建築事務所の求人がきていたのがきっかけで。
━━それまでにも、函館に行ったことはあったんですか?
富樫:大学1年の夏に、青春18切符で北海道から東京へ帰ったんですけど、そのときにちょっとだけ立ち寄ったことはありました。札幌から夜行に乗って、朝4時くらいに函館に着いて、シーポートのところでカラスに餌やりながら朝ごはんを食べて、7時くらいの便で青森に向かったくらいなんですけど。
海越しに山がある風景と、レンガの倉庫が連なってたのは覚えていたんですけど、そのときはほとんどカラスの印象しかなかったですね(笑)。
━━あんまりいい印象ではないですね(笑)。それで、函館のどんな会社に就職したんですか?
富樫:組織設計事務所といわれるような組織ですね。建築家が15人くらいいる大所帯の設計事務所です。だけど、そこは半年くらいで辞めてしまいました。店舗のロゴやDMをデザインする業務が多くて、なかなか設計の仕事ができなかったんですよ。イメージと違う現実を目の当たりにして、「ここに何年いれば自分のやりたいことができるんだろう?」と思っちゃって。
僕は大学を出た時点ですぐにでも独立したいという気持ちがあったので、「これじゃあ全然ダメだな」って。最低でも2~3年くらいで独立したいと考えていたので、埒があかないなと思って辞めたんです。
━━その後は、どうしたんですか?
富樫:それで、やっぱり個人事務所だと思って、道内で個人事務所をやっている若手の建築家の方、何人かに連絡して会いに行きました。そのうちのひとりが、サロマで設計事務所をやっていた五十嵐淳さんという方だったんですよ。
五十嵐さんのところへ行って、設計した家を見せてもらった帰りに、次に着手する案件のオーナーさんにお会いしたんですけど、「予算も人手もなくて困ってる」みたいな話をしていたので、「僕、今住所不定無職なので、是非やらせてください!」って言ったんです。それで、オーナーさんの家に寝泊まりさせてもらいながら、五十嵐さんのところに通うことになったんですよね。
障害者の里子を預かる施設を作る案件だったんですけど、完成するまで1年半くらい修行して、そこからまた函館に戻ってきました。
━━では、結果的にはトータル2年くらいで独立を果たしたんですね。
富樫:いや、函館に戻ってきてからは、小澤建築研究室というところで修行していました。小澤さんは、いわゆるクラフトマン系の建築家で、僕がやりたいと思っていた方向性と一致していたので、ここで働きたいと思ったんです。それで、「弟子にしてください!」って手紙を送ったんですけど、「人はとりたくない」と言われて…。それでも、小澤さんのところでしかやりたくないと思っていたので、なんとか僕を置かせてくださいってお願いしたんです。
そしたら「じゃあ給料ないよ」って言われて、「いや、大丈夫です。夜にバイトするんで」ってことで働かせてもらえることになったんですよね。そこからは、日中は設計して、現場に出たりとかもして、夜は居酒屋でバイトするという生活を送っていました。
━━富樫さんの熱意が伝わったんですね。そこでは、どんなことを学んだのでしょうか?
富樫:〝向き合うこと〟ですかね。最初の設計事務所を半年で辞めて、次のところも一年半で辞めて、小澤さんのところも駄目だったら、もうこの業界にはいれないなと思っていたんです。
━━建築家としてやっていくためには、後がないという気持ちだったと。
富樫:はい。結局、小澤さんのところには7年いたんですけど、最初の4年くらいは給料もないし、貯金はゼロだったし、次の月どうやって食っていこうかっていう暗黒の時代でしたね。お金だけじゃなくて、時間もなかったですから。
小澤さんのところで仕事して、夜はバイトして、帰ってきてからは友達の事務所の仕事を個人でやってたんですよ。それでも建築の仕事だけでは食えなかったから、「どうやったら独立できるんだろう?」ってもがき続けていました。
━━まさに、出口の見えないトンネルを進んでいるような。
富樫:そうですね。その頃に今の奧さんに出会って、ずっと支えてもらっていました。そんな中、付き合いのあった蒔ストーブ屋さんからお客さんが、「鹿部に家を建てたいって人がいるんだけど、変なハウスメーカーにお願いしてるみたいだから何か提案してくれないか」って話があって。もう、本当に寝ないで色々と提案したんです。
それで、6社くらいでコンペをしたんですけど、他のハウスメーカーは予算オーバーで、僕がプランを立てた家は予算以内だし、要望も聞いてくれるってことで、「それであればお願いします」って言ってもらえたんですよね。そこで、ようやく独立に踏み切ったんです。
━━「函館で7年修行して、学ぶことは学んだから、さあ独立だ!」という流れではなく、ひとつの仕事が決まったことで、独立という道が開けたわけですね。そこから、拠点として今の家を購入したと。
富樫:そうです。貯金がなかったので、色んなところからお金を借りてきて、それを元手にお金を借りて、どうにか購入しました。
仕事として請けた鹿部の『大屋根の家』は、翌年の完成を目指していたので、その間は借金で生活してたような感じでしたね。バイトもしてましたけど。
━━そのときって、次の仕事の見込みはないわけですよね?
富樫:次の仕事の予定はなかったですね。独立しても、なお厳しかったです。
だけど、とりあえず人に見せる作品がなかったので、鹿部の家を建ててすぐにオープンハウスをやる告知チラシを刷って、色んなお店に置いてもらったりしたんです。そういう地味なポスティングとかが、いい宣伝になったのかもしれません。
━━それから徐々に仕事がくるようになったんですか?
富樫:そうですね。その仕事を色んな媒体に送って、雑誌とかでも取りあげてもらったんですよね。それの影響があったかはわからないですけど、徐々に仕事をもらえるようになりました。
あとは、自分の家をリノベーションしていく様子を、定期的にブログで配信していたんですよ。リノベーションの方法を記録として残しておけば、誰かが真似できるかなと思って。そのブログを見た人が遊びに来てくれたりとか、手伝ってくたりとかもあって、そういう積み重ねが次の仕事に繋がったのかなと思っています。今は、ほぼ人の繋がりで仕事をしてる感じですね。
━━富樫さんは、個人の仕事のほかに、『箱バル不動産』のメンバーとしても活動されていますが、こちらの経緯についても教えてください。
富樫:小澤さんのところにいた最後の頃の仕事で、『tombolo』の改修工事をしたんですよ。もともとはギャラリーだったんですけど、息子さんが帰ってきてパン屋を作るってことで。その現場にはたまたま僕も弟子として入っていて、そこで淳くんと知り合ったんですよね。
それから、家が近いこともあって、『tombolo』に遊びに行くようになって、淳くん夫妻と「この街どうにかしないとダメだよね」って話してたんです。お互いに宅建の資格とろうかって話もしてたんですけど、そんなところに「不動産屋やってます!」っていう蒲生くんが救世主的に現れて、「じゃあ、一緒にやろうよ!」ということになりました。結成のスピードはすごく早かったですね。
今まではできなかったようなことが、どんどんできるようになっていく感じがすごく楽しいです。
━━「今まではできなかったようなこと」というのは?
富樫:『函館移住計画』にしろ、『大三坂ビルジング』の映像にしろ、『HAKOMAP』にしろ、思い立ったらすぐに蒲生くんが映像を作れる馬場くん(BEYOND the LENZ)とか、マップ作りに協力してくれる妹尾くん(PALM WINE STORE)とかを紹介してくれるんですよね。「なんでそんなにキャストが揃ってるんだろう?」って思うことが多々あるんですけど(笑)。自分達のやりたいことを発言すれば、どんどん現実になっていくのがすごいなぁと。人が集まるってのは、すごく面白いですよね。
自分の家を改修してるときは、常に一人でやってるような状態だったから、同じことを思っている4人が揃って何かをできるというのは、本当に幸せですね。時間がなくて辛いときもあるんですけど(笑)。
━━チームとして理想的なかたちですね! 最後に建築家として、箱バルメンバーとして、父親として、今後どのような暮らしをしていきたいという想いはありますか?
富樫:今は日々仕事に追われている状態なので、もうちょっと西部地区ライフを満喫したいなという気持ちはあります。親としては、子ども達にも家や街並みを残してやりたいし、やるべきことはたくさんありますね。
建築家や、箱バルメンバーとしては、再生物件が増殖して、街中が埋め尽くされれば、またすごい街に復活するだろうから、そこを目指していきたいです。
━━それは西部地区だけ視野に入れていますか? それとも駅前とか五稜郭なども含めて?
富樫:西部地区以外は、あまり見ないようにしています。本当はやりたいんですけど、プロジェクトって一個一個なので、時間も労力もけっこう消費するんですよ。西部地区だけをやっていても食えないかもしれないですけど、ここだけで食えたらいいなって思っています。
━━「ここまでやれたら、西部地区は満足」というような、ゴールの設定はあるんですか?
富樫:ゴールはないですね。一生でそんなにたくさん手掛けられるわけではないですし、やってもやってもやりきれないくらいあるので。
建築って、その後も残っていくものだから、こういう想いを持って携わっていた人がいたってことだけでも残せたらいいなと思っています。
ともえ大橋から見た函館山
「山の裾野に街が広がっているという外から見た西部地区の景観が好きなんです。『魔女の宅急便』で、キキが新しい街にいくシーンを見ているようで。作品のモデルになっているガムラスタンという街にも行ったことがあるんですけど、まさにその景色を思い出します。」
元町公園から見た函館港
「街があって、海があって、また街が続いていて、その向こうに山が見えるという西部地区の中から外を見た景観なんですけど。忙しい日常の中で、心が休まる景色で、いつ見てもきれいだなって思う場所です。」
弥生幼児公園
「家の裏にある公園で、すごく小さいんですけど、よく子ども達を連れて行くんですよ。街に暮らしているってのが実感できるくらいの距離感というか、今では庭みたいな感覚ですね。