■好きな服を着ているだけで変わり者扱いされる函館という街の息苦しさ


━━少し過去に遡って、ファッションとの出会いについて伺いましたが、幼少期のことについても聞かせてください。
今泉:小さい頃は、母親の実家がある上磯に住んでました。当時は、バレエを習ってましたね。たぶんお母さんが通わせてくれたと思うんですけど、楽しかったです。衣装も可愛かったですし。

━━その頃からすでに衣装への関心があったんですね。
今泉:お母さんが〝チュチュ〟っていうバレエのスカートにお花をつけてて、その時にスパンコールとかを見て、「何それー?」みたいな感じで興味を持ったのは覚えています。お母さんも楽しそうに「可愛いでしょー!」みたいな感じで。

━━お母さんは手芸も得意だったんですね。
今泉:そうですね。あと、おばあちゃんが2人とも和裁をやってたので、針仕事は身近な存在でした。夏休みの工作とかも手芸で、小さいお洋服だったり、フェルトで金魚のマスコットを作ったりしましたね。あとは、服が入ってた箱を改造して、裁縫箱を作ったりもしてました。

━━もう、手芸が遊びの延長にあったんですね。服作りのルーツは家庭環境にあったと。
今泉:そうですね、言われて初めて気づきましたけど(笑)。お母さんが昔着てた服とかを見たりとかしてると、私でも、「いや、派手だな」って思うんですよ(笑)。だから、私のこういう感性は、お母さんから受け継いだんだろうなとは思います。

━━幼稚園の頃は、どんなお子さんでしたか?
今泉:幼稚園から千歳に引っ越して、団地の子達とカタツムリとかバッタを捕ったりして遊んでましたね。あとは、ピアノと水泳を習ったり。

━━バレエにピアノと、お嬢様コースを突き進んでますねー(笑)。
今泉:言われてみたらそうですね(笑)。お母さんに「ピアノ習ってみたくない?」って言われて。あとから聞いたら、娘にピアノを習わせるのがお母さんの夢だったみたいなんですけど。
幼稚園は、行くたびに泣いてましたね。お母さんから離れるのが、とにかく寂しかったみたいで。性格もかなり引っ込み思案で、みんなで動物の絵を描くって時間があったんですけど、私は山の上に小さなウサギを1匹だけ書くような子でした(笑)。

━━深層心理が表れてる感じですね(笑)。自分がそういう環境に置かれてると思ってたんですかね。
今泉:かもしれないですね(笑)。とにかく内向的だし、恥ずかしがり屋だったので。

━━当時は、自己表現が苦手だったんですか?
今泉:できるだけ自分を出さないようにしてました。周りと一緒がよかったんでしょうね。
あと、小学校に入る時にメガネデビューしたんですけど、メガネがすごく嫌いで。小学校の集合写真とか、自分がメガネをかけてる写真は、けっこう最近まで嫌でしたね。

━━その頃から見た目に対する意識が強かったんですね。メガネが容姿を損ねるというか。
今泉:そうかもしれないですね。メガネをかけると自信がなくなっちゃうって感じでした。

━━小学校も千歳ですか?
今泉:入学したのは千歳の小学校で、2年生からはまた上磯ですね。
そこでカルチャーショックがあったんですけど、上磯の子って、みんな自分のことを下の名前で呼んでたんですよ。千歳ではみんな「私」って呼んでたので、それがけっこう衝撃的で。「自分を下の名前で呼ぶのってぶりっ子みたいだな」と思って、でもみんなそう言ってるから私もそうした方がいいのかなっていう葛藤があって。結局、その場に馴染むために、私も下の名前で呼ぶようにしたんですけど、最初はかなり違和感がありましたねー。

━━幼いながらに葛藤があったんですね。だけど、函館とか上磯の人からしたら、バレエやってて、ピアノやってて、しかも自分のことを「私」って呼ぶ子が来ちゃったら、もう〝都会のお嬢様〟ってイメージそのままですよね(笑)
今泉:そうかもしれないですね(笑)。とにかく、自分を「円花」って呼ぶのが、みんなの中に入っていくための第一歩でした。



━━中学生の頃は、すでにオシャレを楽しんでいたとのことですが、学校生活はいかがでしたか?
今泉:中学の時は、吹奏楽部でトロンボーンを吹いてました。上中って、強いんですよ吹奏楽。函館地区では金賞が当たり前で、3年生の時は全道も行きました。かなり一生懸命やってましたね。
礼儀とかにも厳しい学校で、休みの時間にメイクしたりしてて、生活指導を受けたりとかもありました。ただ、その時の先生は最初にガツンと怒ってから、「お前達は、何も身なりを正さないやつよりはマシだ! ただ少しやりすぎだ」みたいな感じで言われて、「こんな先生もいるんだ!」と思って、ちょっと嬉しかったですね。

━━頭ごなしに怒るんじゃなくて、一定の理解を示してくれたんですね。
今泉:そうなんですよ。確かに、自分でもやりすぎてるっていうのはわかってたので、素直に受け入れられました。それで、心が変わって、中3の部活も本気で頑張りたいし、パートリーダーにもなったし、身だしなみはかなり普通になりました。

━━なるほど。高校に上がると、また少し状況は変わって、自由度も高くなるかと思いますが?
今泉:高校でも吹奏楽部に入ったんですけど、西高って吹奏楽部がマーチングもやるんですよ。だけど、吹奏楽とマーチングバンドのコンクールって全然違うんですよね。私はやるからにはいい結果を出したいって思ってたんですけど、マーチングやりながら全道目指すのは私には厳しいと思って、結局2年生で辞めました。それからは、もう遊び呆けてましたね(笑)。服を作り始めたのも、その頃からです。
最近になってお母さんから聞いたんですけど、高校の時はけっこう先生から電話が来てたらしいんですよね。生活指導的な。朝登校して、「なんだ、その髪は!」って怒られて、「はい」って、そのままカラオケに行ったりしてたので。当時は何も聞かされてなかったんですけど。

━━それを今になって言ってくれるというのは、お母さんの優しさですね。先ほど伺ったファッション遍歴でいえば、高校時代はギャル系からロリータ系への転換期だと思いますが、そこにはどんなきっかけがあったのでしょうか?
今泉:ビジュアル系バンドが好きになって、そっち系になった感じです(笑)。当時、ベイシティーズストリートっていうライブハウスによく行っていて、そこで仲良くなった人達とファッションを楽しんだりしてました。

━━音楽がきっかけだったんですね! そうやって、ファッションや音楽に触れていく中で、高校卒業後の進路はどのように考えていましたか?
今泉:進路は、かなり早い段階で決まってました。好きな雑誌に『バンタン』っていう専門学校の広告が載ってて、「ここに行きたい!」ってなって。両親に相談したら「わかった!いいよ!」って感じだったので。
学校側からは別の道を進められたんですけど、両親のオッケー出たし、自分で勝手に願書を出して進めてしまいました(笑)。一応、道内の学校の資料とかも見たんですけど、全然ピンとこなくて。やっぱ、やるなら上を目指したいし、それなら東京だなって。

━━地元を離れることに対して、寂しさや不安はありましたか?
今泉:家族や友達と離れるのは寂しかったですけど、函館の狭いコミュニティーが嫌いだったので、街に対してそういう感情はなかったです。

━━他との比較という意味ではなく、函館にいながらにして〝狭い〟っていう感覚があったんですか?
今泉:ありましたね。人との繋がりが狭いというか。誰かとしゃべってると、「え!? その人、私も知ってる!」みたいな。そういうのが、すごく嫌いで。同じ毎日を、ずっと同じ人たちと続けていくっていうのは心が重いなって。「生きづらい」というか。自分の好きなファッションも思う存分に楽しめないっていう部分にも窮屈さを感じてましたし。
さっきの、ご飯屋さんの話もそうなんですけど、街を歩いてるとけっこうダイレクトに人の声が届くんですよね。「かわいい~!」、「あんなの着たくない!」、「何あれ!」みたいな感じで。それがけっこう辛くって、こんな街、すぐにでも出たいって思ってました。

━━twitterのリプライみたいな感じで、見知らぬ人からの声が直接聞こえてくるってことですか。
今泉:そうです、そうです。あと、バンドが好きな人達が集う掲示板に「西校の円花キモい」って書かれてたりもして。ネットってエグいじゃないですか。匿名で、すごく酷いこと書かれてて。写りの悪い写真とかを乗っけられたり。あの時、同じ空間にいた人が、匿名だとここまでひどい事書くのかって。かなり傷つきましたね。





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