祖父から受け継いだ〝やれることはすべて自分でやる〟という精神


━━専門学校に入ってから、先月函館に帰ってきたところまでのお話を伺いましたが、今度は幼少期のお話を聞かせてください。生まれたのも銭亀沢ですか?
谷藤:生まれたのは富岡町で、幼稚園を卒園した後に、じいちゃんばあちゃんが暮らしていた銭亀沢に移ったんです。

━━当時は、どんなことをして遊んでいましたか?
谷藤:当時は、犬から逃げたりとかして遊んでましたね。野放しにされてる犬のところに行って、そっから逃げるっていう(笑)。

━━(笑)。自分から進んで犬のところに行って、逃げるっていう遊びだったんですか?
谷藤:罰ゲームみたいな感じですね(笑)。その犬がいるところが割と広くて、サッカーとかも、そこでやってたんですけど、犬が来ちゃうから、プレーの途中で逃げたりしてましたね(笑)。飼い犬なんですけど基本的に野放しで、でかいやつが10匹くらいいるんすよ。

━━10匹も(笑)!?
谷藤:そいつらが、一斉に追いかけてくるんですよねー(笑)。

━━子どもの頃、犬に追いかけられるのって、めちゃくちゃ恐かったですよね(笑)。銭亀は海も目の前だし、泳いで遊んだりとかも?
谷藤:海は、たまーにっすね。あの辺って遊泳禁止なんで、警察の人とかが見回りをしてて、入ってるとすぐ怒られちゃうんですよ。なので、よっぽど「今日は泳ぎたいねー」っていうとき以外は、だいたい犬の方に行ってました(笑)。

━━なるほど(笑)。中学生くらいになると、またちょっと状況も変わってくるかと思いますが、中学時代はどんな生活をしてましたか?
谷藤:いやぁ、結局、犬に行ってましたね(笑)。中学生になったんで、今度はみんな装備とかもできるようになって、エアーガンを持って行ったりとかしてました。

━━最初は罰ゲームで追っかけられるっていう遊びだったのが、次第に討伐に向かうみたいな遊びになっていったと。なんか、そこもスターウォーズっぽいですね(笑)。
谷藤:そうですねー(笑)。結局、最後は僕らが追いかけられて逃げるんですけど。あと、川が凍ってたら、歩いてどこまで渡れるかみたいな遊びもしてました。誰かが落ちたら、笑って逃げるっていう(笑)。

━━いかにも、中学生の男子って感じのノリですね(笑)。そういう、気の合う仲間と、小中と9年間一緒に過ごすわけじゃないですか。やっぱり、地元の人達とは今も繋がりが強いんですか?
谷藤:いや、ほとんどないですね。高校になってバラバラになるにつれて、遊ぶ機会も少なくなっちゃったんで。

━━結局、そうなっちゃうんですね。では、高校生活はいかがでしたか?
谷藤:高校生活はすごく楽しかったですね。周りも面白い人が多かったんで。ほとんど部活とバンドって感じの生活でした。

━━部活は何を?
谷藤:高校はラグビーですね。中学まではサッカー部だったんですけど、ある時、監督から呼び出されて「お前はサッカー向いてないから、高校ではサッカーやらない方がいいよ」って言われて(笑)

━━それは、またストレートというか、辛辣というか…(笑)。一応、愛のある言葉だったんですかね?
谷藤:たぶん、愛のある言葉だったと思うんですけど、その監督から「工業のラグビー部の監督が、俺の教え子だから、そこでラグビーをやってみたらどうだ?」って言われて。中学の後半はもう、僕だけそのサッカー部の監督相手にラグビーのタックルの練習とかやらされてましたね(笑)。

━━(笑)。その流れだと、流石にサッカー部へはいけないですよね(笑)。
谷藤:いや、そうですねー(笑)。でも、ラグビーがめっちゃ面白かったんで、結果的にはよかったです。全道大会とかには行けなかったですけど。

━━バンドっていうのは、どういった経緯で?
谷藤:僕、父さんが函館の巴太鼓に所属していたのもあって、小学校の頃から和太鼓を習ってたんですよ。それを知ってた友達が、バンドやりたいって人と一緒に僕のクラスに来て、「こいつ和太鼓やってたからドラムいけんじゃね?」って言われて。そういう経緯でバンドを始めましたね(笑)。

━━そこもまた〝ノリ〟だったんですね(笑)。ライブとかもしてたんですか?
谷藤:音楽とか興味ある方じゃなかったんですけど、始めてみたらドラムも面白くて。ベイシティーズストリートっていうライブハウスで、ライブとかもしてました。



━━高校を卒業してからは、札幌の専門学校に進み、東京の会社に就職。それで、約1ヶ月前に函館に戻ってきたということですよね。最後に今後の展望を伺いたいんですけど、谷藤さんには3歳になる息子さんがいるということですが、何か子育ての面で意識していることとかってありますか?
谷藤:えーとー、そこまではっきりとは考えてないんですけど、単純に健康に育ってほしいなっていうのと、あとはせっかく函館に戻ってきたんで、こっちならではの生活を経験させてあげたいなとは思います。

━━函館ならではの生活というと?
谷藤:僕は、富岡から銭亀に移ってきたタイミングで、じいちゃんと一緒に暮らすことになって、昆布取りの漁とかに連れて行ってもらったり、畑の手伝いとかしてたんですよ。そういう経験から得た〝暮らしの知恵〟みたいなものが、潜在意識の中に残ってて、息子にも同じように〝生きていくために役立つ経験〟みたいなことはさせてあげたいですね。

━━そういう経験ってのは、東京ではもちろん、市内でも限られた環境下でしかできないことですよね。反対に、函館の中でもちょっと田舎の地域というか、子どもたちも少ないような場所で子育てをすることに対して不安などはありませんか?
谷藤:不安はほとんどないっすね。本人次第だと思うんですけど、何もないところだからこそ、逆に何でもできんじゃないかなっていう気はしてます。興味さえあれば、広がりやすいかなって。

━━子どもが少ない地域では、例えばサッカーがしたいのに人が少ないからサッカー部が作れないといった状況も出てくるかと思いますが。
谷藤:そういう場面になったときに、本人が考えて、アイデアを出して、それを補うためにはどうしたらいいかっていうようなことを考えられる人間になってほしいなって思います。あるものに憧れるじゃなくて、無いなら無いなりに、自分のアイデア次第でなんでもできるってくらいの。

━━親として、選択肢の広い環境を作ってあげようっていうよりも、子どもの自主性に委ねたいというか。
谷藤:そうっすね。親としては、無いからどうにかして手に入れるということではなく、あるもので工夫すれば使えるよねっていう、考えて、アイデアを出しながら生きていくっていう生活を実践していくことで、背中を見てほしいじゃないですけど、息子にも、そうやって考えて、アイディアを出せるような人間になってほしいと思いますね。

━━親から与えたいものは、物や環境ではなく、知恵だったり、考え方や志といった部分だと。
谷藤:はい。そうですね。僕自身も、じいちゃんや父親から、そういう部分を学んだし、それが今も役に立っているので。

━━おじいさんやお父さんは、どういう方なんですか?
谷藤:じいちゃんは、漁師をやりつつ畑とかもやってたんですけど、基本的に自分ができることは自分でやっちゃおうって人でした。車庫を建てたりとか、大工工事とか、自分達の身の回りのものはなるべく全部自分で、人に頼まないでやっちゃおうって人だったんですよね。銭亀沢って、そういう人が多いんですよ。親父も、上手いとか下手とかは別にして、やれることは全部自分でやるって人ですね。
じいちゃんは3年くらい前に亡くなったんですけど、本格的に函館に帰ろうとおもったのも、その頃でした。本当は、もっと教えてもらいたいことがあったんですけどね。

━━そうだったんですね。だけど、〝やれることはすべて自分でやる〟という精神は脈々と受け継がれているわけですね。谷藤さんの息子さんも、いつか函館を出るという日が来るかもしれません。そういうときには、どんな言葉をかけてあげたいですか?
谷藤:言葉としては特にないですかねー。特にないっすけど、どっか外に出たタイミングで、自分の生きてきた過程が、ある意味ひとつの選択肢というか、他では経験できないことだったんだなって気づいてもらえればそれでいいっすかね。そこが自分の武器だったのかと。そういう風に繋がっていったら、嬉しいなと思います。





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汐泊川

「じいちゃんの船がここに停めてあって、そこから漁に行ってたんですよね。あと、凍った川の上を歩いてたのも、ココです。色んな思い出が詰まった場所っすね」

根崎公園ラグビー場

「高校のとき、ラグビーの試合でよく行ってたんですよ。試合負けた後とかに、ゴールの裏で、監督を倒せるまでタックルの練習をしてました。スクールウォーズみたいな感じでしたね」

亀田川

「高校を卒業する春に、友達と一緒に自転車で亀田川沿いを下って海まで行こうってことになったんですよ。ただ、実際に海まで行けたかは覚えてないんですよね」