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幼稚園から中学校まで附属に通い、本人曰く「ガチガチの型の中で育った」という坂本沙也加さん。高校進学を機に〝自由〟を強く意識するようになり、親の期待と自分の希望の間で激しく揺れ動いたといいます。そんな彼女が選んだのは、幼少期からの夢に突き進むという道でした。浪人してまで大学進学にこだわり、今は東京の病院で念願だった看護師として活躍する坂本さん。函館に対する愛を胸に秘めつつ、今は海外で働くという目標に向かって邁進する彼女に、青春時代の〝苦悩〟と、それを乗り越えたからこそ得られた〝自由〟について語っていただきました。

ー取材・文章:阿部 光平、撮影:馬場 雄介、イラスト:阿部 麻美



■2歳で決めた”看護師になる”という目標


━━まずは、現在のお仕事のことから教えて下さい。
坂本:都内にある国際系の病院で看護師をしています。

━━担当業務としては、どういった仕事に携わっているのでしょうか?
坂本:仕事の内容としては、患者さんの病状に合わせて何でもやる感じです(笑)。呼吸器科勤務だったら、呼吸器系しか扱わないんですけど、私の科は毎日違う症状の患者さんを担当しているので、呼吸器はもちろん、整形や小児科の患者さんも来るので、すべてできないといけない職場ですね。
今年が1年目なので、最初は先輩について仕事をしていましたが、今はひとりで動いています。

━━毎日、違う症状の違う患者さんを担当するというのはかなり大変そうですね。そもそも看護師になろうと思ったのは、どのようなきっかけですか?
坂本:昔から体が弱く、2歳の時に小児喘息にかかってしまって、入退院を繰り返していたんです。なので、小さい頃からずっと、大人になったらお母さんか看護師になるんだろうなぁと思っていました。

━━2歳の時に思い描いていた夢を実現したわけですね。今まで、その夢がブレることはありましたか?
坂本:幼稚園に通っていた3歳の時には、もう文集とかに「大きくなったら看護婦になる」って書いていて、気づいたらここまできてたって感じです(笑)。他の職業に就きたいなとか思ったことはないですね。

━━全国各地、数ある病院の中で、今の病院を選んだ決め手は何だったのでしょう?
坂本:いずれは外国で働きたいなという気持ちがあるので、国際系の病院を選びました。

━━具体的にどんな国で、どういった仕事をしたいというイメージはありますか?
坂本:ん~。研修でブラジルに行っていたこともあるので南米とか、あとはカンボジアとかに行きたいという気持ちはあります。看護師が必要とされてる場所に行きたいですね。

━━海外で高い技術を学びたいということではなく、単純に困っている地域に行きたいと。ちなみに、国際的に見て日本の医療レベルというのは、どう評価されているのでしょう?
坂本:医療のレベルは高いと思います。他の国に比べるとお金も出してるので、国際的なチームにも派遣もされやすいようです。

━━看護師として海外を目指す若者にとっては良い環境なんですね。通っていた看護学校も東京ですか?
坂本:私は看護学校ではなく、横浜市立大学の医学部看護学科を卒業しました。

━━ということは、6年間通ったということですか?
坂本:医学科は6年間なんですけど、看護科は4年ですね。

━━僕の周りにも看護師の友人がいるんですが、特に函館では大学ではなく、看護学校に通う人が多い気がするんですが。
坂本:そうですね。私も高校の同級生とかで看護師をしている友人もいるんですけど、看護学校を卒業した人がほとんどで、大学に行った人はすごく少ないですね。私は、高校を卒業して、一年間札幌の予備校に通って、そこから横浜の大学に行きました。周りの人には「函館に看護学校あるのに、なんで?」って聞かれました。

━━どうしても、その大学に行きたかったということですか?
坂本:いや、そういうわけではないんですけど。まず、最初に看護師になりたいという想いがあって、同時に海外で仕事をしたいという気持ちがあったんです。でも、ある時、自分の周りにいる看護師さんは海外には行ってないなと気が付いて。
それで、確か小学校5年生くらいの時だったと思うんですけど「海外で働いている看護師さんって、どこの学校を出てるんだろう?」っていうのをインターネットで調べてみたんです。そしたら、名門の看護大学を出た人が多くて。やっぱり、函館にいたら海外で働く看護師にはなれないなと思いました。

━━医療系の大学を卒業するのと、看護の専門学校を卒業するのとでは、取得できる資格も違ってくるんですか?
坂本:資格は一緒です。ただ、専門学校だと保健師とか助産師の資格はもらえません。大学だと総合的に資格を取ることができます。あとは、やっぱり語学の勉強ですかね。海外で働くためには語学力が必要で、大学だと医療だけでなく語学も学べるというメリットがあります。




■”いい子”だった小学生から一転。反抗期に突入した中学時代




━━では、一旦、時代を遡って、幼少期のお話を伺いします。函館ではどんな生活を送っていましたか?
坂本:幼稚園から、小学校、中学校と、ずっと附属に通ってました。

━━附属って幼稚園からあるんでしたっけ? 当然、入園試験もあったんですか?
坂本:そうですね。附属にいったのは、家が近かったというのと、あとはまぁ親の意向だったと思うんですが(笑)。内容までは覚えていないですが、入園試験もあって、合格した子と落ちた子の親同士が気まずくなるみたいなこともあったらしいです…。
幼稚園の頃のことはあまり覚えてませんが、中学校までだと3歳から15歳までをずっと同じメンバーで過ごすことになるので、かなり小さなコミュニティーで育ちました。

━━小学生の時は、どんなことをして遊んでましたか?
坂本:なぜか、遊んだ記憶がないんですよね。たぶん、友達がいなかったんだと思います(笑)。
あと、附属って友達と遊ぶとなると一大事なんですよ。親が出てくるレベルの。

━━どうして、そんなことに?
坂本:みんな函館市内の色々なところから通ってたので、遊ぶとなると電車とかバスとか親の車とか乗らなくちゃいけないんですよ。
私の家は、学校から歩いて5分のところだったんですけど、遠いところから通っている子も多かったので、物理的に遊べないという状況もあったと思います。友達と一緒に下校したって記憶もないですね。

━━それはかなり特殊な環境ですね。知らなかった。では、当時、夢中になっていたことはありますか?
坂本:習い事ばかりしてました。全部で7個か8個かな。英語、公文式、家庭教師、ピアノ、絵画、タップダンスとか色々やってましたね。
学校に友達がいないことを親が心配して「何か好きなことを見つけなさい」って感じで色んな習い事をさせてくれたんです。

━━それは、小学生ながら、かなり多忙なスケジュールが予想されますね(笑)。たくさんの習い事の中から、何か好きなことは見つかりましたか?
坂本:好きなことと言っていいかはわかりませんが、公文式は楽しかったです。2歳から15歳まで通ってて、特に国語が好きだったんですけど、中1の時には大学レベルの国語まで終わらせました。

━━えー! すごいですね、ソレ! アメリカだったら飛び級するレベルじゃないですか! というか、公文式って大学のレベルにまで対応してるんですね。最後はどんな勉強をするんですか?
坂本:とりあえず、できたのは国語だけで、数学とかは全然ダメでしたけどね。国語の最後は、教材とかではなく、古文を読んで「己の考えを述べよ」みたいな感じでした(笑)。そういうのばかり勉強してたので、小学生の頃から作文とか読書感想文とかがすごく得意で。だから夏休み明けは、私すごく輝いてました(笑)。

━━夏休みの読書感想文って、日本中の全小学生が嫌いだろうと思ってました(笑)。
坂本:公文式のおかげか、どんな本を読んで、どんなことを書けば高く評価されるかというポイントがわかっていたので、それを基準に書いてましたね。で、見事に表彰みたいな。我ながら、かわいくない小学生ですよね(笑)。

━━要領がいいというか、ちょっと斜に構えた感じだったんですね(笑)。それは、実力があるからこそのスタンスなんでしょうけど。函館に、そんな天才児がいたなんて知りませんでした(笑)。ちなみになんですけど、ご両親って何をされてる方なんですか?
坂本:たまに聞かれるんですけど、全然普通の会社員です。お母さんは主婦です。あとは2歳上にお姉ちゃんがいました。

━━お姉ちゃんから影響を受けたことって何かありました。
坂本:かなりあります。というか、憧れの存在でした。お姉ちゃんは、私なんかよりずっと頭が良くて、絵画がすごく得意で、コンクールで全国1位になっちゃうような人だったんです。
見た目もすごくかわいくて、近所では「あそこの家の〝長女〟はかわいい」とか言われてたくらいで(苦笑)。わたしが小学校に入学した時も、3年生にお姉ちゃんがいたので、お姉ちゃんの同級生たちが「坂本の妹はどれだ!?」って来たりしてました。「あぁ、あいつか…」って感じで帰って行きましたけど(笑)。

━━まさに才色兼備といったお姉さんですね! 坂本さんの気持ちは単純に〝憧れ〟だったんですか? それとも〝反発心〟も入り混じってました?
坂本:「私も認められたい」って気持ちはあったんですけど、「お姉ちゃんは本当にすごい」というふうにも理解していて。「友達もたくさんいて、煌びやかなだな~」って、憧れの気持ちで見てました。

━━なるほど。では、中学時代はどのように過ごされていましたか?
坂本:今までは、いわゆる〝いい子〟だったんですけど、急に反抗期がやってきたんですよね。親に対しても、先生に対しても、なんか気に入らないというか。よくわからないけど、荒れてました(笑)。

━━覚えてる中で、これちょっと荒れてたなってエピソードはあります?
坂本:家の窓ガラスとかを割ってましたね(笑)!

━━えぇー! 公文式で大学レベルをクリアするような子が、いきなりガラスを割るんですか!? なぜ(笑)?
坂本:理由は覚えてないんですけど、親とケンカをして、カッとなってガラス割るみたいな(笑)。そのまま学校に行って、帰って来た時には窓も直ってたんですけど、心の中で「お母さんごめん」って思いながらも口に出しては謝れないみたいな(笑)。

━━なんか、その気持ちわかります(笑)。もう意固地になっちゃって。
坂本:まさにそんな感じですね(笑)。

━━そのまま中学校3年間は荒れ放題ですか(笑)?
坂本:その頃、生徒指導の先生に呼ばれたりしてて、その先生が男子バスケットボール部の顧問だったんですけど「お前、男バスのマネージャーやれ!」みたいな感じになったんですよ。今思うと、それが大きな転機になりました。
当時、附属の男子バスケットボール部はけっこう強くて、私の代には全国大会まで行ったんです。だから、中学3年間を集約すると「マネージャー頑張ったな!」って感じですね。ガラスを割り続けるような3年間ではなかったです(笑)。




■親の期待と自分の人生の間で揺れ動いた18歳



━━高校はどちらに進みましたか?
坂本:函館東高校です。卒業する時には、北高と合併して市立函館高校になってましたけど。

━━東高校を選んだ決め手は何だったのでしょう?
坂本:学力ですね! 附属中って各学年の生徒が80人で、上位層の15人くらいは東京の高校や札幌南高校とかに行くんですよ。その次の層はラサールとかで、毎年40人くらい。あとは遺愛の特進とか中部高校とかって感じで。「東」って言ったら笑われたのを憶えてます(笑)。でも、私の学力的には、どうにか東に行くがやっとでした。
あとは3歳から15歳まで附属で、ずっと同じ人たちと一緒だったので、ちょっと離れたいなって気持ちもありましたね。中部に行ったらなんとなく一緒だし、遺愛とかも代わり映えしなそうだなぁと。

━━実際に東高校へ通ってみた感想はどうでしたか?
坂本:本当にもう〝自由〟って感じで! すごく楽しかったです! 学校の帰りに友達と遊ぶっていうのがすごく楽しくて!

━━そっか! 小学校も中学校も附属だから、学校帰りに遊べなかったんですもんね。15歳にして初めて下校中に遊んだと! それはさぞかし楽しかったでしょうね。当時は何をして遊んでましたか?
坂本:普通にコンビニに寄るとか(笑)。それだけでも、すごく楽しかったんです。しかも、東高って私服じゃないですか。だからみんな個性に溢れていて、「こんなに型にはまってなくていいんだ!」って新鮮な気持ちでした。それまでがガチガチの型にはまっていたので余計に(笑)。

━━確かに自由な校風ですよね。部活にも入ってましたか?
坂本:引き続きバスケットボール部のマネージャーをしてました。初めて人に認められたのが、中学のバスケ部のマネージャーだったので、マネージャー業が私のアイデンティティーのひとつだったんです。なぜか高校でも、私が附属でマネージャーやってたことが知られていて、先輩に誘われるまま「すぐ入ります!」って感じでした。押しに弱いんです(笑)。

━━ほんと、マネージャー業に出会えてよかったですね(笑)。その他には、何か印象に残っているエピソードなどありますか?
坂本:学校って〝派手グループ〟と〝地味グループ〟みたいなのがあるじゃないですか。私は中学の頃からずっと地味グループに属してたんですけど、高校2、3年くらいで突如クラスの派手グループからお呼びがかかって(笑)! 気がついたら、可愛い子しかいないチアリーディング部の仲間に入れてもらってたんです。そこで、ようやく煌びやかな世界に飛び込みました(笑)。

━━お姉ちゃんに憧れること、17年! ついに煌びやかな世界に足を踏み入れましたか!
坂本:念願叶いました(笑)。チア部の子が派手グループの男の子と付き合ってたりして、派手グループの男子たちと男女数人で港祭りに行ったり、海で花火とかしたり、スケート行ったり、そういう楽しい高校生活が幕を開けました(笑)。

━━絵に描いたような派手グループの遊び方ですね(笑)。その中にいることに違和感を感じたり、それまで一緒にいた地味グループから疎まれるみたいなことはありませんでした?
坂本:単純に楽しいって感じだったんですけど、「なんで私この人たちといるんだろ?」って思ったりもしてましたね。地味グループの子とも仲はよかったので、楽しかったです! 「こんなに自由にしててもいいんだ」ってことに生まれて初めて気が付いて、「私、解放されてる!」って感じでした(笑)。

━━なんか、どんどんと自分の殻を破っていく少女マンガのヒロインみたいですね(笑)。そんな充実した生活の中でも、やはり看護師になるという夢は変わらずあったんでしょうか?
坂本:変わらずでしたね。その時から大学を受けることは決めていて、先生からは滑り止めで市内の看護専門学校を受けろと言われたんですけど、きっぱりと断りました。三者面談でも、専門学校を受けるように言われたんですが、親も大学へ行かせたいって気持ちがあったので、先生の前で「専門は受けません!」と言ってくれました。

━━娘の意思を尊重してくれたわけですね。
坂本:はい。だけど、結果的には全部落ちちゃって…。函館で浪人するという道もあったんですけど、もっと勉強に集中しなきゃと思い、札幌の予備校に通わせてもらうことにしました。その一年は猛烈に勉強して、1年間でセンター試験の点数が200点くらい上がりましたね。

━━おぉ、天才少女っぷりが戻ってきましたね(笑)。予備校に通うことになって、初めて函館、そして親元を離れることになったかと思いますが、どんな気持ちでしたか?
坂本:札幌は都会だなぁと思いました。それと同時に、もっと都会に行きたいなとも思いました。
親元から離れて思ったのは、何よりも親のありがたみですね。今まですごく甘えてたんだなぁと。反対に、親がいないことで、色々なことに踏み込める、挑戦できるという実感もありました。

━━踏み込める、挑戦できるというのは?
坂本:私の親は色々なことをやらせてくてたんですけど、すごく厳しくて。「中学まで附属に通って、中部か遺愛の特進に入って、その後は国立の大学に行くのよ」みたいなことを小さい頃から言われて育ったんです。高校で中部に行けなかった時に、親から私に対する諦めの気持ちみたいなものを感じてしまって、だけど何とかして期待に応えなきゃって思う自分もいて。親が期待する道と、自分の進みたい道の間で悩むこともありました。
はじめは、そういった親の期待をお姉ちゃんが一身に背負っていたんですけど、お姉ちゃんが夜遅くまで遊びに行き始めたりすると、親が望む〝いい子ゾーン〟から外れていって。そしたら今度は、親の目が私の方に向けられることになったんです。高校3年生くらいまでは、なんとか親の期待に応えようと一生懸命頑張ってたんですけど、親元を離れて札幌で暮らし始めたら、門限のある学生寮に住みながらも「こんなに自由にしていいんだ!」という感覚が芽生えました。札幌で生活する中で親の期待から解き放たれたことを自覚した時、函館に戻らずに、とりあえず親がいないところで頑張ってみようという気持ちが固まりました。

━━函館が田舎で物足りなかったというよりも、とにかく親元を離れたという気持ちが強かったということですか?
坂本:そうですね。函館って住みやすいし、いい街だなぁと思うんですけど、とにかく親元を離れて頑張りたいという気持ちが強かったです。

━━それで、進学先は東京に決めたと。
坂本:そうですね。あとは、国際看護師になるためには、人との繋がりも大切だということを知って、東京に出た方が色々な人と繋がりを持てるかなという考えもありました。
結果的には、親の希望だった国立大学ではなかったですけど、一応公立の大学に受かって、その時は親も喜んでくれましたね。親の期待にもある程度応えられ、自由も得られて、とても充実した浪人生活だったと思います。




■離れたからこそ感じる函館の良いところ





━━札幌から大学進学で東京へ。街の規模も、自分が置かれている立場も大きく変わったかと思いますが、東京での生活はいかがでしたか?
坂本:〝楽〟でした。全部自分で決めていいんだって。

━━苦労したことや、寂しかったことはありましたか?
坂本:予備校に通い始めた最初の3ヶ月は、函館から誰も友達が来てなかったこともあって、ほぼ毎日泣いてましたが、東京に来た頃には一人暮らしにも慣れてきていたので大丈夫でしたね。あ、住んでたのは横浜の方でしたけど(笑)。

━━横浜といえば、港町ということでは函館とも共通点があるかと思いますが、街の印象はどうでした?
坂本:すごく綺麗で「テレビで見た景色だ!」って感じでした(笑)。私が住んでいたのは横浜でも外れの方だったんですけど、商店街とかもあって、あまり都会都会しすぎてないところが馴染みやすかったです。遊ぶときは横浜まで出て行く感じでしたね。

━━看護大学というと忙しかったり、堅苦しいようなイメージがありますが、サークル活動などもあるんですか?
坂本:はい。大学でも男子バスケ部のマネージャーをやってました(笑)。マネージャー歴が6年もあったので、けっこう重宝されましたね。学校も充実してましたし、自分が変わった4年間だったと思います。

━━今までのお話だと高校生活が大きな転機だったのかなという印象なんですが、大学で自分が変わったと思うのはどういったところですか?
坂本:自信がついたところだと思います。今までは何をやるにしても自信がなくて、マネージャーいう部分だけでは褒められることもあったので、そこだけは少し自信もありましたけど。自分がどういう人間なのかを、初めてしっかり考えることができた4年間で、いろんなことに自信が持てるようになりました。

━━大学を卒業したのが今年の3月で、4月からは念願だった看護師としての生活が始まったわけですね。まだ社会人生活は始まったばかりですけど、函館にはどれくらいの頻度で帰っていますか?
坂本:年に1、2回くらいですね。この前、6月に早めの夏休みをもらって、2日くらい帰省しました。

━━自分が離れてからの函館はどんなふうに見えてますか?
坂本:最近、函館がんばってるなって思います!

━━僕の周りでも、最近そういう話よく聞くんですが、どんなところに頑張りを感じるのでしょう?
坂本:なんか、おしゃれなスポットが増えてません? ラッキーピエロじゃない素敵なハンバーガー屋さんができたり(笑)。函館に帰ると、新しくできたお店が多いなって感じます。あとは、高校の同級生で函館新聞の記者をやっている男の子がいるんですけど、帰った時に久しぶりに会ったら「今すごく函館頑張ってんだよ!」って話してました。
函館アリーナができて、GLAYがライブしたってニュースを全国放送の番組で見たのも嬉しかったですね。

━━やっぱりニュースとかで「函館」って言葉が聞こえてくると、体が自然に反応しますよね(笑)。そんな函館について、あの街にはあるけれど、東京にはないなと感じるモノやコトはありますか?
坂本:人の温かさですかね。東京の人は、他人に対して無関心だなって思います。この前、函館でバスに乗ったんですけど、赤ちゃんを抱っこしたお母さんが乗ってきた時、私も含めて乗客みんながそっちに目を向けて、おじさんが笑わせてたり、おばさんが「何ヶ月なの?」って話しかけたりしてたんですよ。極端な例かもしれないですけど、東京だとそういう光景には出会わないですよね。

━━無関心な人が多い東京に対しては、ネガティブな印象を持っていますか?
坂本:最初はすごく嫌だったんですけど、それにすら慣れてきてる自分もいます。初めて横浜に来た時とかはビックリして、悲しい気分になりましたが、最近は無関心になる人の気持ちもわからなくはないなぁと思っています。

━━と、いいますと?
坂本:〝面倒なことに巻き込まれたくない〟というか。困っている人がいたとしても、声をかけて面倒なことに巻込まれたらどうしようとか思って、躊躇してしまうことはあります。なんか都会に染まってきた感じで、自分でも嫌ですけど。

━━反対に、東京にはあるけれど、函館にはないなと感じるモノやコトはありますか?
坂本:東京には〝寛容さ〟があると思います。例えば、うちの親なんかは、世間体というか、「こうでなければいけない」みたいな意識がすごく強いんですよ。私も近所の人に「沙也加ちゃんは今何してるの?」って聞かれて、「横浜で看護大学生してます」と答えると、「えっ? 函館の看護学校に行けばいいのに、なんでわざわざ横浜の大学に?」みたいに言われることがあります。「わざわざお金をかけて遠くまで行って、同じ資格を取るの? なんで?」って。
函館は、そういう「こうでなければいけない」意識が強いと感じます。それから外れてると、もはや異質なもとのして取り扱われるというか。東京だと「そういう考えかたもあるんだな」と、もっと寛容に受け止められるような気がします。

━━そういった2つの街の良し悪しを踏まえ、今後、函館に帰ろうという気持ちはありますか?
坂本:結婚したり、子どもができたりとかしたら帰るかもしれないですね。うちの場合は、お姉ちゃんも東京に出てきているんですけど、きっと函館に帰るつもりはないだろうから、そうなると親のことも心配ですし。
でも、今のところは海外で看護師をしたいと思っているので、しばらくは故郷と親元を離れて頑張ろうと思っています。






八幡坂

「高校の時に、よく自転車で行ってました!古着屋さん巡りが楽しかったです!」

トロイカ

「石川町にあるケーキ屋さん。帰ったら絶対いくようにしてます。シュークリームがおいしいですよ!やさしい味がします。」

函館から八雲方面に行く途中の道

「おばあちゃんが八雲にいて、そこに行く時に通るんです。海と空以外に何もない風景が好きです。」