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〝恥ずかしさやプライドが邪魔して、自分の夢を素直に語れない〟。そんな経験、誰もが少なからず身に覚えがあるのではないでしょうか。他人の目が過度に気になる思春期ならば尚のことです。幼い頃から漫画が好きで、将来は漫画家になりたいと思っていた敦森蘭さんも、当時は自分の夢を他人に語ることができなかったと言います。17歳で漫画家デビューし、紆余曲折を経ながらも、今は真っ直ぐ漫画に打ち込む彼女に、これまでの葛藤や今後の夢を語っていただきました。

ー取材・文章・撮影:阿部 光平、イラスト:阿部 麻美



■漫画がすべてだった小学校時代


━━現在は東京で漫画家先生のアシスタントをする傍ら、ご自身の作品を制作しているそうですが、まずは漫画家を志すようになったきっかけについて教えてください。
敦森:もともと絵を描くのが好きだったんです。小学生の時から、休み時間は常に友達とお絵描きをしていて、そのうち絵が上手な友達と〝交換漫画〟というのを行うようになりました。

━━交換日記の漫画版みたいな感じでしょうか。
敦森:そうですね。お互いに自分の漫画を描いて、それを読んでもらうという感じで。それぞれがノートに連載作品を描いてました。

━━なかなか本格的な遊びですね。その漫画は他のクラスメイトにも披露してたんですか?
敦森:基本的には2人で読んでたんですけど、ある時、学校に漫画クラブを作ろうって話になったんです。私の小学校は各学年2クラスしかなかったんですけど、その中で署名活動を行って、漫画クラブの創設を申請しました。それが通って、私が部長になり、そこでもひたすら漫画を描いてましたね。今思うと生意気な話なんですけど、作品を見せるのにクラスメイトから50円くらいの現物料を徴収してました(笑)。

━━署名活動に見物料って、小学生とは思えぬ知恵と行動ですね(笑)。実際、読者からの評判はどうでしたか?
敦森:そんなせこいやり方をしてたのに、みんな50円払って見てくれたんですよ。「見たい、見たい」って言って。けっこう評判はよかったですね。

━━ちなみに漫画で稼いだお金は何に使っていたんですか?
敦森:ローソンで、からあげクンとか買ってました(笑)。

━━そこはやっぱり子どもなんですね(笑)。当時は、どういった作品を描いていたのでしょう?
敦森:『ふしぎ遊戯(※1)』とか『BASARA(※2)』とか、ファンタジー的な漫画が好きで、そういった作品からの影響をモロに受けてました。絵も、渡瀬悠宇(※3)さんを真似て描いてましたね。

━━僕のイメージだと『BASARA』なんかは、もう少し読者層が上という感じがするんですが?
敦森:そうかもしれませんね。当時は〝FAXフレンド〟というシステムがあったんです。漫画雑誌の後の方に色々な読者の連絡先が掲載されていて、そこで漫画友達を作ることがでました。「絵描いてます」とか「F友募集」みたいな感じでFAXを送って、全国の読者と情報交換をするみたいな。そこでオススメ漫画とかを聞いていたので、少し大人っぽい漫画を読むようになったんだと思います。

━━SNSがない時代でも、そういった交流はあったんですね。函館にいながら各地の漫画ファンと情報交換したり、絵を見せ合ったりして、さらに漫画にのめり込んでいったと。
敦森:そうですね。小学生の頃はひたすら絵や漫画を描く毎日で、家帰ってすぐに絵付きの手紙を書いたりしてました。FAXフレンドに送ったり、クラスの友達にも書いてましたね。明日になれば学校で会えるのに(笑)。

━━もう漫画を描くのが楽しくて楽しくて仕方ないといった感じですね。その頃描いていた漫画のタイトルとか覚えてますか?
敦森:それ聞いちゃいます? ちょっとイタいんですけど「お茶目っ子探偵団」という漫画を描いてました(笑)。探偵をしている小学生3人組がいて、依頼を受けて、事件を解決していくみたいな。

━━推理モノですか。ストーリー展開とかは、どのように構築していったんですか?
敦森:小説ですね。小説というか、子供向けのミステリー本を参考にしていました。母が図書館に行くときについて行って、直感でおもしろそうな作品を借りていました。

━━僕なんかは小学生の頃、本を読むのが苦手だったんですけど、その頃から漫画だけでなく本を読むのも好きだったんですね。
敦森:いや、それがそうでもなくて。本当は本を読むのは好きじゃなかったんですよ。文読むのが遅くて。でも、私はストーリー作るのが下手だという自覚があったので、「もっと本を読まなきゃいけない」って意識で読んでました。

━━漫画のストーリー作りを学ぶために、小説を読んでたということですか。すごいストイックですね!
敦森:ストーリーは、ほぼパクリみたいな感じで、まったく身にはなってなかったですけど(笑)。とりあえず、いろんな情報をインプットしようとは心がけていました。
母親が漫画キットみたいなものを買ってくれたので、小学校6年生の時には漫画雑誌の賞に投稿したりもしてましたね。受賞には至らなかったんですけど、1次選考は突破できて、「12歳にしては上手です」という評価をもらっただけでもかなり嬉しかったです。




■友達にも隠し続けた17歳での漫画家デビュー




━━中学校でも部活は漫画部ですか?
敦森:中学はバスケ部でした。

━━バスケも好きだったんですね。それとも漫画部がなかったとか?
敦森:いや、バスケ部には友達に合わせてしぶしぶ入ったという感じです。漫画は相変わらず好きだったんですけど、中学生って思春期の真っ只中じゃないですか。当時って、〝漫画好き=オタク〟みたいな雰囲気だったんですよ。今でこそオタクカルチャーは市民権を得てますけど、その頃は「ダサい」とか「モテない」とほぼ同義だったので、オタクっぽく見られることにはかなり抵抗がありました。だから、漫画好きというのは封印していましたね。

━━それは単に外面としてですか?
敦森:そうですね。中身は正真正銘の漫画オタクなんですけど、外面としては「私、バスケやってます!」みたいな(笑)。家では漫画を描いてましたが、とにかくひっそりやってましたね。
ちょうどその頃に、同人誌という存在を知ったんです。函館でもコミケ(※4)があったので。

━━へぇー! そうなんですね。知らなかった。どこで開催されていたんですか?
敦森:亀田支所の近くにある会館みたいな場所で行われていました。100組くらいは出店してたかな。ただ、学校の友達に言うとオタクだと思われるので、そこにもひとりで行ってました(笑)。

━━徹底して漫画好きを隠し通していたんですね(笑)。
敦森:はい、思春期真っ盛りだったので(笑)。そこで知らないお姉さんとかと仲良くなったりして、そのうちに自分でも出店するようになったんです。アンソロジー本(※5)を企画している人がいて、作家を何人か集めて、みんなで一冊を作るといった感じで。

━━つまり、中学の頃は仮面バスケ部で、実は漫画を一生懸命やってたと。その頃には、将来漫画家になろうという意識はありました?
敦森:中学の頃は、まだありましたね。

━━「まだ」というと、その後は失われていったわけですか?
敦森:小中学生の頃は本気で漫画家になろうと思っていて、当時、佐川急便のトラックに描かれている飛脚のふんどしに触ると願いが叶うみたいな都市伝説があったんですけど、見つける度にふんどしに触れては「漫画家になれますように!」と願い事をしてました(笑)。神社とかにお参りに行った際も必ず、願い事はすべて「漫画家になれますように!」とお祈りしてましたね。

━━純朴でいい話ですねぇ。心が洗われます(笑)。
敦森:でも、高校に入ってからは漫画がだんだん遠のいてきました。他になりたい職業ができたとかではないんですけど、なんとなく。ライブとかに遊びに行くことが多くなって、漫画がどこかに行ってましたね、そのときは。

━━では、高校ではどのような生活をしてましたか?
敦森:帰宅部だったので、何してたんだろ。友達と遊んでましたね。だけど、2年生の時のクラスに、漫画を描きたいっていう友達がいて、どこから仕入れたのか私に「昔描いてたんだよね?」って言ってきて。

━━あんなにひた隠しにしてたのに?
敦森:そーそー。どっかから漏れたんでしょうね(笑)。その子から「漫画の描き方教えてよ」って言われたんですけど、そこで「私も漫画描きたい!」という熱が再燃して、久々に作品を描いたんです。それを勢いで『別冊マーガレット(※6)』という雑誌に投稿したら、なんとデビューが決まったんですよ。

━━素晴らしいシンデレラストーリーじゃないですか! デビューが決まった時の周りの反応はいかがでした?
敦森:ほとんど誰にも言ってなかったので、特に(笑)。親は喜んでくれて「やったねー!」とか言ってくれたんですけど、やっぱり恥ずかしいって気持ちの方が大きかったです。

━━デビューが決まってまで秘密にするとは(笑)。本当に恥ずかしかったんですね。
敦森:授業中とかも、ずっとネームとかプロットとか書いてたんですけど、誰かに読まれたら嫌なので、自分で暗号文字を作ってるくらいでした(笑)。万が一ポロっと落としたとしても、誰にも理解できないように(笑)。

━━鏡文字を使ってたレオナルド・ダ・ヴィンチみたいですね(笑)。そこまで徹底して知られたくないという姿勢を貫いていたのは、漫画が実体験をベースにした内容だったからですか?
敦森:いや、今は実体験をもとに身の回りのことを描くこともありますが、その時は違いました。単に〝漫画を描いている〟ということが恥ずかしかったんです。
今思うと、高校生の時も漫画家になりたいという夢は持っていたはずなんですけど、それを口にするのが恥ずかしいあまりに進路相談でも「エスティシャンになります」とか言ってました(笑)。

━━あぁ、なんかわかります。そういうの。自分の好きなこととか、やりたいことを素直に言えない思春期だからこその照れというか。
敦森:特に漫画家って得体の知れない職業じゃないですか。お給料とかもよくわからないし。「夢見てんじゃねーよ」とか思われそうで、人には言えませんでしたね。




■デビュー後に待ち受けていた苦難の道



━━では、高校卒業後は大学や専門学校へ進学したんですか?
敦森:いや、進学はせずに家で漫画を描いてました。デビュー作が雑誌に掲載されてからは、担当編集者の方が付いてくれて、読み切り作品を作り続けていましたね。

━━本格的にプロの道を目指すことになったわけですね。実際に作品を作る時というのは、どのような行程で進めていくのでしょう?
敦森:まずはネームと呼ばれるコマ割りや、全体の構成を担当さんに見せて、「ここを直しましょう」みたいな修正を加え、OKがでればペン入れをして仕上げるといった流れです。それを編集企画会議に出してもらって、作品を掲載するかどうかを審議する感じですね。

━━そうやって雑誌掲載や連載を勝ち取るわけですね。デビュー後の道のりは順調でしたか?
敦森:厳しい世界だとはわかっていましたが、想像以上に厳しかったです。デビューしてから2、3作品は雑誌に掲載されたんですけど、漫画界にも不況の波が押し寄せてきて、業界全体がだんだん厳しくなってきたんですよ。私自身も、ずっとネームをボツにされる時期が続いて、だんだん掲載もされなくなっていきました。
それが、ちょうど19歳くらいの時で、就職も進学もせず実家で漫画を書いている生活だったので、徐々に親との関係もギクシャクしてきて…。しかも、まだ恥ずかしいという気持ちが抜けきれていなくて、親が部屋に入ってきそうになったら原稿を隠すみたいな感じだったんですよ。親からしたら、私は何もやってないみたいな感じに見えるから、たびたび「就職しなさい」って言われるようになっていました。

━━好きなことをしていく上で、親の理解を得るというのは大きな関門ですもんね。
敦森:そうですね。当時は自分でも焦ってて、漫画が描けないような時期もありました。それで、逃げ道を探すように美大への進学を考えるようになったんです。もちろん最終的な目標はプロの漫画家なんですけど、まずはこの現状を打破しなければという想いがあって。
進学に関しては、親も賛同してくれました。ただ、今まで散々甘えきってきたので、学費は自分で稼ごうと思って、一度函館で就職したんです。そこで2年ほどお金を貯めて、教育ローンを組み、まずは東京の美大予備校に行きました。21歳の時ですね。

━━東京まで行かずとも、札幌や仙台にも美大予備校はあったと思いますが、なぜ東京という選択になったのですか?
敦森:行きたい学校がどれも東京の大学だったんです。場所的にも、レベル的にも東京の予備校がいいだろうということで。

━━初めての一人暮らしは楽しかったですか?
敦森:いやぁ、全然楽しくなかったですね。もう寂しくて寂しくて(笑)。学校にもあまり馴染めず、仲良くなった友達もほとんどいませんでした。だから、もう毎日ひたすら勉強して、家に帰ったら一人で孤独と闘うみたいな(笑)。函館に帰りたいと思うくらい辛かったです。辛すぎて、勉強も身に入らないという最悪な負のスパイラルでした(笑)。

━━予備校だと、その先に受験が待っているというプレッシャーもありますからね。息抜きするにも気がひけるというか。
敦森:まさにそんな感じでした。それで1年後に受験したんですけど、見事に落ちて。浪人するお金もなかったので、志望してたのとは別の美術大学に通うことにしたんです。

━━では、そこで4年間ガッチリ美術を学んだと。
敦森:いや、そこは2年で中退しました。理由はいくつかあるんですけど、まず面白い人がいなかったんですね。それと、その頃、著しく体調が悪くて、ひどい時には学校にも行けないくらいで。半分は止むを得ず辞めたという感じです。

━━なるほど。東京にやってきた目的は進学でしたが、その学校を中退した後は、どういう道を選んだのでしょう?
敦森:やはり漫画だけは捨てきれなくて。以前お世話になっていた出版社に、原稿を持って行きました。そのときには、前に担当してくれていた方は移動になっていたんですけど、新しい編集者の方に引き継いでもらえることになり、そのまま漫画を描き始めました。

━━デビューという実績があったから、その辺りはスムーズに再開できたわけですね。
敦森:そうですね。ただやはり担当編集者との相性というのがあって、作品のテイストとして合う、合わないというのがあるんですよ。いくら自分が良いと思っても担当に受け入れられなければ企画会議にも進めないし、かといって担当が好きそうなテイストに寄せたとしても会議でも受け入れられるとは限らないので。そんな感じで、そこでもなかなか結果が出なかったんです。
しかも、当時の編集部には、作家が他の出版社に行くのを良しとしないような雰囲気があったので、合わないからといって外に出ていくわけにもいきませんでした。横の繋がりも強い業界なので、下手に出ていっても生き残れないかもという不安もあって。

━━頑張っても結果が出ない。かといって、新天地を求めて外に飛び出したところで、この業界では生きていけないかもしれないと。
敦森:身動きがとれない苦しい状況ですね。
だけど、自分を殺してまで漫画を描き続けるのも嫌だったので、離れる決心をしました。ちょうどその頃、浅野いにお(※7)先生のアシスタントをしていて、そこの先輩にあたる方が「どこでもいいから早く出しなよ」と背中を押してくれたんです。そこで、試しに『モーニング(※8)』が主宰する『MANGA OPEN』という賞に、作品を応募してみたところ、編集部の方から「担当になりたいです」という連絡が来て。次のMANGA OPENに出すために作った40ページの作品で、奨励賞を受賞しました。

━━おぉ!シンデレラストーリー再びですね!
敦森:そんなに大袈裟なものではないですが、少女漫画を離れて青年誌にシフトチェンジしたところだったのでとても嬉しかったです。今は浅野先生と斉藤倫(※9)先生のアシスタントをしながら、青年誌での連載に繋がるための作品作りに取り組んでいます。




■「函館は今、盛り上がっている気がする」





━━では、再び話を函館に戻したいと思います。今、函館に帰省するペースはどれくらいですか?
敦森:2、3年に一回で、長くても4泊くらいですね。

━━函館を出たのが21歳の時で、それから7年。当時と比べて、函館には何か変化を感じますか?
敦森:東京で暮らし始めてから改めて見ると、本当に何もないなと感じます。お店とか。久々に帰ると最初は寂しい気持になりますね。私、車の免許がないからどこにも行けないし、バスとかは8時には終わっちゃうし。
でも今年の6月に帰った時は、ちょっと印象が違いました。

━━といいますと?
敦森:函館が盛り上がってきている気がします。特に桔梗とか5号船沿い辺りが。蔦屋書店とか、以前はなかったお店がたくさんできたりして。
あとは人ですかね。私のまわりでも、面白い人が函館に帰ったりしてて、楽しい企画やイベントが増えているので、街全体がまただんだん良くなってきている印象がありますね。

━━そうした実感がある中で、函館に帰ろうというヴィジョンはありますか?
敦森:帰りたいという気持ちはあります。ただし、漫画家としてのポジションを確立してないと難しいかなと。売れっ子の作家さんとかだと海外で書いている方もいるし、作業的にはどこでもできるんですが、名前で仕事ができるようになるまでは東京で頑張らないといけないですね。

━━函館が魅力的だと感じるポイントはどの辺りでしょう?
敦森:ひとつは人との繋がり方ですね。それは東京よりも函館の方が濃いと感じます。函館は小さな町だから、「この子、漫画を描いてるんだよ」という感じで人が人を繋げてくれるんですよね。

━━そういったシチュエーションというのは、東京の方がよりたくさんあるような気がするんですが?
敦森:東京は広いから、逆にコミュニティが限られてくる感じがします。似たり寄ったりなコミュニティいくつかあるだけで、全体的には広がっていかないというか。
函館の方がいろんな業種の人とかに会えて面白いですね。一度、外に出てから戻って来てる人も多くて、そういう人は市内だけじゃなく、それこそ全国にネットワークを持っているから、閉鎖的な感じもしません。

━━なるほど。確かに東京ではコミュニティが限られてくるというのはあるかもしれませんね。
敦森:もうひとつ魅力だと思うのは時間の流れですね。東京はせわしなくて、情報量がとても多いので、作家同士で話すときとかでも、知っておかなければいけない情報みたいなのがあって。ツイッターとかで情報収集してから会話しなきゃいけないような雰囲気があります。
それに対して函館は時間もゆっくり流れているし、人も大らかだなと思います。この前、帰っていた時に、1日中まったくケータイを見てないことに気づいたんですよね。制作の場としては、こうやって心にゆとりが持てる環境の方がいいなと感じます。

━━作品をつくる環境としては、やはり静かで落ち着いているというのは魅力的ですよね。ただ、やはりそういう環境だとインプットの部分で物足りなさを感じることもあるかと思います。東京にはあって、函館にはないなと感じるモノやコトはありますか?
敦森:美術展とか音楽系のイベントとかですかね。結局、有名なアーティストの展示や公演は東京で行われるし、函館には全然来てくれないじゃないですか。その辺りは、やっぱり東京には敵わないなと感じます。
ただ、美術展にしろ、音楽にしろ、東京で暮らしているといつでもいける感じがしちゃって、逆に行かなくなるという側面もあります。函館に住んでたら絶対に行くだろうイベントでも、こっちだとまた今度行けるやって感じになっちゃって行かないとか。まぁ、自分の問題なんですけど。

━━ありがたさが失われると見ている時の集中力も違ってきちゃいますよね。最後に、自分の人生の選択として東京に出てきたのはよかったと思っていますか?
敦森:離れて一層函館の良さがわかったという意味でも、東京に出てきてよかったです。いつか心が落ち着く環境で漫画を描く生活ができるよう、今は東京で頑張ります。











(※1)ふしぎ遊戯
渡瀬悠宇による少女漫画。古代中国の四神などを題材にしたファンタジー作品で、1995年からはテレビアニメも放送された。


(※2)BASARA
田村由美による少女漫画。文明崩壊後の日本を舞台にした少年漫画的な題材の架空戦記作品でありながら、ラブストーリーとしての要素も持ち合わせていた。


(※3)渡瀬悠宇
大阪府岸和田市出身の漫画家。少女漫画雑誌の他に、少年誌や青年誌でも執筆。代表作に『ふしぎ遊戯』や『絶対彼氏』などがある。


(※4)コミケ
コミックマーケットの略。同人誌を販売するイベントで、毎年8月と12月に東京ビックサイトで行われるイベントの来場者は50万人を超える。


(※5)アンソロジー本
複数の短編や読み切り作品を掲載した本。コミックアラカルトと呼ばれることもある。


(※6)別冊マーガレット
集英社が発行する少女漫画雑誌。中高生を読者層にした雑誌で、現在は実写映画化された『君に届け』や『俺物語!!』などが連載されている。


(※7)浅野いにお
茨城県石岡市出身の漫画家。1998年に『菊池それはちょっとやりすぎだ!!』でデビュー。『ソラニン』や『おやすみプンプン』が代表作として知られている。


(※8)モーニング
講談社発行の青年漫画誌。『バガボンド』や『宇宙兄弟』、『クッキングパパ』などジャンルに囚われない作品を掲載し、数多くのヒット作を生んでいる。


(※9)斉藤倫
愛知県豊橋市出身の漫画家。現在は、集英社の『Cookie』で『路地裏しっぽ診療所』を連載中。






base

「千代台にあるCAFE&BAR。約束とかしてなくても、行くとだいたい友達がいるお店です。お酒が美味しいし、ご飯(特にグリーンカレー)も美味しいし、シゲ(犬)が超かわいい!」

裏夜景

「高校が陵北だったので、よく寝そべって裏夜景や星空を見ていました。その頃の気持ちを思い出せるというか、初心にかえれる場所ですね。」

港まつりのいか踊り

「昔、葬儀屋さんでアルバイトしてたことがあって、そこのチームでパレードに参加しました。あれって一応コンテストになってるんですけど、なんと1位を獲得! 大門から五稜郭まで踊り切りました。」