plate

「僕、お金かせぐのがめちゃくちゃ大好きなんですよ」と明言する若山史郎さん。一見、現金至上主義のようにも聞こえる言葉ですが、その裏には「やりたいことをやるためにはお金が要る」という前向きな信念がありました。パソコンとカードゲームに熱中していた学生時代から、様々な会社を渡り歩いて独立に至るまでの経緯、家族と共に過ごしていく今後のヴィジョンまで、東京と函館の視点から様々なお話を伺いました。

ー取材・文章:阿部 光平、撮影:馬場 雄介、イラスト:阿部 麻美



人生を動かした〝変な社長〟との出会い


━━はじめに、現在のお仕事について、業務内容や始められた経緯などを教えてください。
若山:今は『アイアンワークス合同会社』と『Tokyo Mild Foundation株式会社(以下TMF)』という2つの会社を経営しています。アイアンワークス合同会社は、『Dig.cards』というトレーディングカードゲームについての情報サイトを運営しています。TMFの方は、映像制作やWebのプロモーションなどを行っている会社です。

━━本日お邪魔しているのは、TMFさんの事務所なんですけど、こちらでは具体的に、どのような映像を制作しているのでしょうか?
若山:広告に使うための動画制作がメインです。You Tubeを再生される前に流れる動画とか、企業がキャンペーンをする際に使うプロモーション用の動画を作ったりしています。あと、「自社でコンテンツを作っていかなきゃダメだね」ということで、walk-3000というサイトを立ち上げて、自社でドキュメンタリー映像を撮ったりもしています。

━━若山さんは取締役副社長を務められているとのことですが、こちらの会社はどのような経緯で設立されたのでしょう?
若山:TMFには役員が4名いて、そのうちの3人が以前勤めていた不動産会社の同期なんです。そこで知り合ってから、それぞれ一度別の会社に転職したりしたんですけど、数年経ってから「一緒にやろうか!」って話が持ち上がって。それで、去年、会社を立ち上げました。

━━なるほど。では、若山さんも最初は不動産業界に身を置いていたということですね。そもそも、なぜ不動産業界に飛び込もうと思ったのですか?
若山:新卒で就職したんですけど、実際、大学生の時には「何になりたい」とか「何をしたい」みたいな想いがなくて。「仕事を頑張りたい」「仕事で成功したい」という気持ちはすごくあったんですけど、業種とかは定まってなかったんですね。だったら、個人としての成長幅が一番大きい会社に入りたいなと思ったんです。
なので、電通とかリクルートとか、コンサルティング系の会社とか、キツそうだけど成長できそうな大きい会社を中心に面接を受けていました。

━━ということは、入社した不動産会社も大手だったと?
若山:いや、それが全然違って。僕が入社した時で、社員は自分以外に2人しかいない会社でした。

━━大手に行くという方針が、途中で変わったんですか?
若山:そういうわけじゃないんですけど。その不動産会社の社長さんが、もうすごく変、というか変わった人で、面接に行ったらタンクトップに短パンみたいな感じだったんですよ(笑)。オフィスにもビリヤード台があったり、チワワがウロチョロしてたり、「なんだ、ココ。イケてるけど、やべぇな…」みたいな(笑)。

━━大手の面接にばかり行ってた人からすると、ちょっと面食らいますよね(笑)。
若山:僕、社会人ってのはスーツ着をなきゃダメだと思ってたんですよ。大学生の頃に思い描いていたイケてる社会人って、仕立てのいいスーツをパリッと着こなしている人っていうイメージだったので。
その社長さんは、見た目的には真逆な感じなんですけど、すごく仕事ができるということで、周りからは高く評価されているし、会社も大きくなり始めている頃だったんです。
そこで、自分のロールモデルとしては、どちらかというとバシッとスーツを着るよりも、こっちだなと思って(笑)。大手の会社さんからもいくつか内定はもらってたんですけど、この社長さんと一緒に仕事をした方が成長できそうだと感じたので、入社を決めました。

━━「不動産業に携わりたい」という気持ちではなく、どちらかといえば社長さんのパーソナルな部分に惹かれての入社だったようですが、その中で得たものといえば、何が思い浮かびますか?
若山:オフィス、事務所の移転の仲介を専門にやっている会社だったんですが、その中で得たものといえば、ひとつは〝人との繋がり〟ですね。オフィスの移転って、基本的に伸びている会社さんが行うことが多いんですよ。社員が増えて、手狭になったというような理由で。なので、勢いのある会社の社長さんを出会う機会が多かったんです。しかも、不動産を選ぶ時って、みなさんけっこう時間をかけて見られるので、一緒に過ごす時間も長いんですよ。その中で、いろんな話を聞かせてもらえたのは、自分の財産になってますね。
もうひとつは、社長から教わった〝仕事に対する姿勢〟です。うちの社長は「売上じゃなくて、クライアントの利益にコミットしなさい」ということをよく言ってたんです。例えば100万円をもらうための仕事をするんじゃなくて、100万円払う価値のある仕事をすべきだという。お客さんが100万円をかけて移転した結果、売上が伸びたとか、何かしらのメリットがないと移転の意味がないじゃないですか。そこまで意識した仕事を心掛けるというのは、今でも自分の指針になっていますね。




突飛な人間関係の中で確立された〝自分のポジション〟




━━その不動産会社には何年くらい勤務していたんですか?
若山:3年くらいですね。僕が入社した後に、今一緒に会社をやってる人たちが入ってきて、それぞれが抜けていったという感じです。

━━若山さんが会社をやめようと思った理由はなんだったのでしょうか?
若山:簡単にいえば、忙しすぎて心が折れたという感じですね。

━━会社がだんだん大きくなっていって、業務が増えてきたことで、疲れてしまったと。
若山:いや、会社は最初からむちゃくちゃ忙しくて、定時が終電で、週に2回は会社に泊まるような生活だったんです。社員が順調に増えていって、上っ面で言えば「会社が大きくなって、自分のイメージと違ってきた」というのもあるんですけど、正直言うと心が折れたというのが一番の理由ですね。まぁ、当時は恥ずかしくてそんなことは言えませんでしたけど。

━━確固たる意志を持って辞めたというよりも、限界に達したという感じだったわけですね。そこから会社設立までは、どのような経緯を辿ってきたのでしょうか?
若山:不動産会社を辞めた後は、日本の大きな企業で働いてみようということで、小松製作所に入社しました。それまでものすごく忙しかったので、逆に「定時で帰って趣味を大事にする!」みたいな仕事の仕方をしてみようと思って。

━━仕事は仕事でやりながら、自分の時間も作れるような環境で働いてみようと。
若山:そうですね。コマツって、残業に対する姿勢がすごく厳しいんですよ。基本的には残業させないし、するなら絶対に残業代が出るといった感じで。とりあえず。勝手に残業とかしちゃいけないんですよね。17時45分になると社内アナウンスで「仕事を切り上げて帰りましょう」って放送が流れてたくらいです(笑)。

━━学校みたいですね(笑)。
若山:本当にそうなんです。そういう会社だったので、今までとはあまりに環境が違って、部活を引退した後の人みたいになっちゃったんです。それまでは毎日深夜まで働いてたのに、18時には退社させられて(笑)。しかも、社食とかもあったので、お金も貯まるんですよ。だけど、「やることねーな」って感じで。そこで、中高生の頃にハマっていた『マジック:ザ・ギャザリング』(※1)というカードゲームを、またやり始めたんです。

━━今までは忙しすぎて疎遠になっていた趣味を再開したわけですね。
若山:はい。僕の周りには、海外の大会に出場したり、プロとしてカードゲームで食べていたりとか、プレーヤーとして強い人がけっこういたんです。
そのうちのひとりが、海外でカードを買ってきて日本で売るみたいな、いわゆるバイヤーみたいな仕事をしていて。彼は世界最優秀選手にも選ばれたことがあって、海外でもサインを求められるようなプレーヤーだったんですけど、ある時「通販サイトを作って、大々的にやりたい」みたいな話をされたので、「それすげえ金になるよ!」って言って、一緒にサイト運営をすることにしたんです。

━━会社を辞めてですか?
若山:そうですね。この人となら一緒にできると思って脱サラしました。彼は、世界的プレーヤーとして広告塔にもなるし、仕入れと売り物の値段をつけるセンスが天才的な人だったんです。ただ、17歳で日本の大きな大会で優勝してから、ずっとプロプレイヤーとして活動してきた人なので「いわゆる社会人か?」っていうとそうじゃないんですよね。
会社を大きくしようとすると、通販サイトを作って、カードを売ってというだけじゃなく、財務とか経理とか、人事とか、いろいろ出てくるじゃないですか。別にそういうことがしたいってわけじゃなくて、「カード売りたい」「プレイヤーとして活躍したい」というところをやりたいって話で。「じゃあ、会社の運営に必要な諸々は俺が引き受けるよ」という形で分業体制でサイトの運営を始めました。結果的には大成功で、通販のサイトとして日本で一番大きくなって、従業員もアルバイトを含めて5~60人の規模にまで成長したんです。

━━まさに順風満帆ですね。立ち上げから携わって、成長を遂げ、会社に対する愛情もあったと思いますが、なぜ、自ら抜けるという決断をしたのでしょう?
若山:バンドでいう音楽性の違いじゃないですけど、彼は小売店としてガンガンやっていきたいというのがあって、僕はネットを使ってカードゲーム業界をもっとよくしたいという気持ちがあったんです。
組織が小さい時って、やれることは少ないんですけど、やりたいことはたくさんあるじゃないですか。ただ色んなことをこなして、会社が大きくなるにつれ、やれることが少なくなっていくんですよ。そうすると、今度は手段が分かれてくるというか。好みやヴィジョンによって、方針が変わってくるんですよね。それで、僕が抜けることにしました。
ちょうどその頃に、不動産会社で同期だった人間から、映像制作の会社を作って独立するという話があったんです。彼も、これまで自分が付き合ってきた人たちに負けず劣らずのブッ飛んだ人で(笑)。めちゃくちゃ仕事できる人で、カリスマ性がある感じの人なんですけど、裏方的な仕事が得意というタイプじゃないんですよね。でも、僕は、これまでにも数々のブッ飛んだ人を後から支えてきたので、「あ、そのポジションやったことあるわ!」って感じで、裏側から支えるお仕事をもう一回やることになりました(笑)。それが2014年の初めの頃ですね。




あらゆる興味に手を伸ばした函館の青春時代





━━では、話を過去に戻して、函館にいた頃のお話を伺いたいと思います。まず、幼少期はどこで、どんな生活をしていましたか?
若山:生まれた時は青柳町に住んでいて、そのまま青柳小学校へ入学しました。

━━当時は各学年何クラスくらいあったか覚えてますか?
若山:たしか2年生くらいの時に、谷地頭小学校と合併したんですよ。それで3クラスになったという記憶があります。各クラスの人数は30人切るくらいでしたかね。

━━そのままいくと中学校は、潮見ですか?
若山:僕は附属に行きました。

━━それは自分の意思で行こうと?
若山:まぁ、自分の意思といえば自分の意思なんですけど。当時、僕、ものすごくパソコンが欲しかったんですよ。父親にそれを言ったら「附属に合格したら買ってやる」と言われて。そこからむちゃくちゃ勉強したんです。
ただ、受かっても附属に行く気はなくて、合格してパソコン買ってもらったら、普通に潮見中に行こうと思ってました。附属には合格してから、行くか行かないかを決めるタイミングがあるということだったので。
でも、僕の世代から、そのシステムがなくなっちゃったんですよね。選択の余地がなくなってしまって(笑)。結局、拒否することもできず、附属に通うことになりました。青柳小学校から附属に行ったのは僕だけだったので、かなりアウェーな状況でしたね…。

━━目論見が外れてしまったわけですか。そもそもどうしてパソコンが欲しかったのでしょう? 当時、小学生でパソコン欲しいという人は、かなり珍しかったのでは?
若山:そうですね。まだWindows95が出るか出ないかくらいの頃だったので、自分の周りでもパソコンが欲しいという友達は皆無でした。

━━そんな環境の中で、なぜパソコンに対する興味が芽生えたのでしょうか?
若山:僕、小さい頃から家電量販店のチラシがすごく好きで。日曜日の新聞とかに入ってくるじゃないですか。コジマ電気とかデンコードーとか。イトーヨーカドーのチラシにも申し訳程度に家電のコーナーがあったんですけど。そこでウォークマンとかを見て「ここが安い」とか「先週よりも安くなってる」みたいな情報を勝手にずっと調べてたんです。

━━失礼ですが、ちょっと変わった小学生ですね(笑)。
若山:今思うとそうですね(笑)。当時、親に物をねだる時には「今が買い時である」といのロジックで話をしてたんですよ。経済的な価値があるんだという。

━━情報を元に理論武装した上で、プレゼンしてたわけですね(笑)。
若山:親が言うには、どうやらそうらしいんですよね(笑)。そういった中でいうと、パソコンって単価が高いじゃないですか。だから値下げのインパクトがでかいんですよ。「1万下がってる!」みたいな(笑)。ウォークマンはどうやっても1万はさがらないじゃないですか。元値がせいぜい1万円くらいなので。
あと、当時はインターネットがないから物のスペックとか調べられないんですよ。だから、チラシはスペックを調べるための資料でもありました。

━━先ほどの発言を改めます。ちょっとどころか、かなり変わった小学生ですね(笑)。
若山:気持ち悪いですよね(笑)。とりあえず、小学校5年生の時に自由研究と年賀状をワープロで作った経験があって、その時から、自分の中には「コンピュータってのはイケてるものだ」という意識がありました。

━━買ってもらったパソコンでは、何をしていたんですか?
若山:NECの『Can BE』(※2)というパソコンだったんですけど、テレビも見れたりとか、当時としてはかなり多機能なパソコンで。筆箱とかもそうですけど、男の子って多機能な物にドキドキするところがあるじゃないですか。それで選んだんですけど、結局はマインスイーパ(※3)とかソリティア(※4)とか、ゲームばっかりやってましたね。あとはタイピングのゲーム。あれを死ぬ程やってたので、タイピングは今でも超早いです(笑)。

━━一応、今の仕事にも活かされているんですね(笑)。念願のパソコンを手に入れた中学校時代でしたが、学校生活はいかがでしたか?
若山:とりあえずテニス部に入って…

━━ソリティアしながら、テニスもしてたんですか(笑)?
若山:そうですね(笑)。テニス部とパソコン部にも入ってました。それと、応援団もしてました。

━━ソリティアしながら、テニスもして、応援団まで(笑)??
若山:我ながら無茶苦茶ですね(笑)。テニスは高校、大学でもやってて、高校の時は一応全道大会まで行きました。団体戦のメンバーだったので、半分補欠みたいなものですけど。

━━高校はどちらへ行かれたんですか?
若山:中部です。附属の男子はラ・サールか中部に行くのが普通といった感じでしたが、結果的には中部に行ってよかったですね。すごく自由な学校だったので。

━━小中高と、函館にいた学生時代、特に夢中になったものを挙げるとすれば何でしょう?
若山:やっぱりカードゲームですね。はじめは仲がいいグループのリーダー的な人が、『マジック:ザ・ギャザリング』を持ってきて、やってみたらむちゃくちゃ面白かったんですよ。すぐにハマりました。

━━当時、函館でのプレイ人口はどのくらいだったんですか?
若山:そのゲームが日本に入ってきたのが1996年で、僕が初めてやったのもその年でした。函館では年に4回くらい大会があって、5、60人くらいは集まってたかな。
今では幕張メッセとかで大会が行われているんですけど、参加者は4000人くらいいます。テニスの4大大会のうように、招待選手しか出られないような大会もあるんですけど、そこだと350万円くらいの優勝賞金が出ます。トレーディングカードゲームの元祖ということもあって、規模としてもダントツで世界一ですね。

━━後に仕事として関わるようになったことを考えると、カードゲームと出会うきっかけをくれた附属のリーダーには感謝ですね。
若山:そうですね。まぁ、そいつは飽き性だったので、やり始めて3ヶ月くらいで辞めましたけどね(笑)。




経営者だからこそ感じる〝稼ぐこと〟の重要性





━━中部高校を卒業した後は、大学進学ですか?
若山:はい。東京の多摩大学・経営情報学部に進学しました。

━━高校を出たら東京に行こうという気持ちは、以前からあったのでしょうか?
若山:あったような気がしますね。ただ、元々は大学に行く気はなかったんですよ。エンジニアというか、プログラマーというか、とにかくパソコン関係の仕事がしたくて。なので、本当は情報系の専門学校に行こうと思ってたんでけど、親から「専門学校に行くなら金は出さない」と言われまして(笑)。親的には、18歳で人生の幅狭める必要はないから4年制大学に行け。ってことだったらしく。それで4年制の大学へ行くことにしたんです。

━━当時、いずれは函館に戻ってこようという意識はありましたか?
若山:ありましたね。漠然とですけど。「40歳までには仕事で成功して、ガッツリ稼いで、函館に帰る!」みたいな。両親が西部地区でLOFT(※5)という店をやってるので、帰ってきたらそこの2階で喫茶店でもやろうかなとか思ってました。

━━その考えは今でも持っていますか?
若山:今は自分で会社を経営しているので、それを放り出して函館に帰るという考えはありません。プライベートや家族を蔑ろにするつもりはないんですけど、僕としては、やりたい仕事ができなくなるという選択はナシなので。だから、やりたい仕事ができるという環境を得られない限り、函館には帰らないかなと。決して帰りたくないわけではないんですが。

━━なるほど。では、18年間暮らした函館を離れて、東京にやってきた時はどういった感想を持ちましたか?
若山:とにかく人が多いことに驚きましたね。当時は、小田急線の新百合ケ丘という駅に住んでいたんですが、急行も特急も停まる便利な駅なだけに、人がむちゃくちゃ多いんですよ。渋谷とか新宿じゃないのに、こんなに人多いのかと。

━━親元を離れて暮らすというのは初めての経験だったかと思いますが、大学生活は充実していましたか?
若山:大学では、かなり勉強してましたね。受験の時よりもずっと勉強してました。実学的な大学だったので、ベンチャー起業の社長とか雑誌の編集長とか、そういう人がたくさんが講演に来てくれて。その中で、経営学というものに興味が湧いてきて、ゼミでは経営学の中で特に組織論というものを専攻して勉強していました。その頃には、プログラマーとかパソコン関係の仕事は、別にいいかなという気持ちになってましたね。

━━それで、卒業後は変わった社長が経営する不動産会社に入社したと(笑)。
若山:そうです(笑)。そこから先は、今話してきたような人生です。

━━ちなみに、今はどれくらいのペースで函館に帰ってますか?
若山:年に1回は帰れてないですね。3年に2回とか、それくらいのペースです。

━━自分が離れてから15年経った函館は、住んでいた頃と比べてどのように見えますか?
若山:シャッターが降りたままのお店とパチンコ屋さんが増えたような気がします。あと、つい最近帰ったんですが、アジア系の観光客がめちゃくちゃ多いなと。地元の人に聞くと、「人がいない人がいない」ってみなさん言うんですけど、西部地区にはアジア人の観光客がメインですが人はたくさんいて。いるところといないところの差が激しいんだなぁと感じました。

━━東京で暮していると、函館にはない刺激というのがたくさんあるかと思うんですが、ひとつ挙げるとすれば、函館にはなくて東京にあるものは何だと思いますか?
若山:人ですかね。東京は、いろんな人がいるっていうのが、すごく大きいポイントだと思っていて。別に函館に面白い人がいないわけでも、東京に面白い人が多いわけではなく、たぶん単純に母数の問題だと思うんですよ。母数が多い方が、人と違っても生きていけるんですよね。函館に東京と同じ数のイカれた人がいたら、たぶん函館は自治体として崩壊しちゃうはずなんですよ。
そういう意味で、変な人というか、すごい熱量を持っていたり、特殊なことを考えてたり、面白いことやろうとしている人というのは、東京の方が見つけやすいと思います。人とそれにまつわる情報の量が、東京の方が圧倒的に多いのなと。

━━反対に、函館にはあったけど、東京にはないなと感じるものはありますか?
若山:何ですかね、函太郎とかじゃないですか(笑)。安くて旨い寿司。やっぱり、美味しいものを食べようと思えば函館の方が安くて旨いですよね。まぁ、高いお金を出せば東京の方が旨いもの食べられるのかもしれないですけど。

━━生活の場としての環境はどうですか?
若山:2月に娘が生まれたんですけど、子育てという観点で言えば、函館の方が絶対にいいなと。それはもう明確に思います。
東京には子どもにとっても刺激的なものがたくさんあるんですよ。だけど、そこで育つと、それが当たり前になっちゃうので、ありがたみが感じられないというか。函館で生まれ育つと、そういう環境に対して憧れを抱くようになるじゃないですか。そっちの方が、面白い人間になりそうな気はするんですよね。
あとは、自然もあるし。東京だと放射能怖いし、地震も怖いなって。まぁ、大間でも原発作ってるので、それはそれで怖いんですけど。

━━先ほどのお話にもあった通り、仕事が最優先というのが基本スタンスなのかと思いますが、結婚して、子どもが生まれてというように、自分を取り巻く環境が変わっていく中で、生活面での変化もあると思います。今後の展望として、こういう暮らしをしていきたいなという具体的なイメージはありますか?
若山:僕は今、サラリーマンではないので、時間の制限とかが普通の会社員の人よりはないんです。その辺りをもっと自由にしていきたいなと思っています。それがある程度までいくと、それこそ函館にも帰れるようになるので。
週に3回東京まで飛行機に乗ろうが、経費が気にならないくらい稼いでいる会社だとか、僕の単価が高くなって「若山さん10万払うんで来てください」みたいな感じになれば、どこに住んでていも問題なくて。そういうふうにしていかないと、好きな事ってできないなと思うんですよ。だからやっぱり稼ぎを増やすというのは、僕にとってすごく重要ですね。

━━より自由な環境を手に入れるためにお金を稼ぐということですね。
若山:僕、お金かせぐのがめちゃくちゃ大好きなんですよ。それは、自由な環境を手にいれるためというのと、もっとやりたいことをやるためでもあるんですよね。やりたいことがあるのに、元手がないから諦めるというのはすごく勿体ないと思っていて。

━━何をするにも、ある程度のお金は必要ですもんね。
若山:あと、僕は雇われていないという意味では個人事業主に近いので、社会的信用がないんですよ。年収1000万円あった時でも、クレジットの審査で落ちたことがあって。他にも個人事業主って家を借りる時の審査も厳しいんですよ。
自分で選んでいるとはいえ、ちゃんとお金を稼がないと、守ってくれる人がいないという状態なので、そういうところで嫁さんや子どもに迷惑はかけたくないなと思ってます。ちゃんと評価に繋がる仕事をして、家庭でも仕事でも、やりたいことをやれる環境をどうやって作っていくかというのが僕にとって、一番の課題ですね。今は、そういう生活を実現したいなと思っています。











(※1)マジック:ザ・ギャザリング
アメリカのウィザーズ・オブ・ザ・コースト社が販売する、世界初のトレーディングカードゲーム。日本でよく知られる『遊☆戯☆王』も、このゲームを元に作られている。


(※2)Can BE
NEC製のパーソナルコンピュータ。Can BE(何にでもなれる)という名の通り、マルチメディア機能に特化した高性能なマシーンだった。


(※3)マインスイーパ
地雷原から地雷を取り除くゲーム。1980年代に開発され、その後、多くのコンピュータプラットホーム向けに書き直され、同梱された。


(※4)ソリティア
ひとりで遊ぶゲームの総称。代表的なものに、トランプを使った複数のカードゲームがある。


(※5)LOFT
函館市の西部地区、二十間坂の下にあるアパレルショップ。アメリカン・カジュアルを基調にした幅広いアイテムが取り揃えられている。






宇賀中から東川小学校までの海岸沿いの道

「高校の時の通学路ですね。夕方、向こう側に青森県が見えて、漁火があって、夏だと月が上に見えるんですよ。何一つ甘い思い出とかはないんですけどね(笑)」

ラッキーピエロ人見店

「チャイニーズチキンバーガーに対してはアンチです(笑)。あれはご飯の方が絶対に合うので。お金なくてカレーばっかり食べてましたね。あれ、コスパすごいすよね!」

千代台公園

「中部って、千代台球場で文化祭の出し物をするんですよ。テニス部でもここのコートを使ってたので思い出深いですね。中学の時は応援団だったので、ここに来ると血が騒ぎます。」