多くの女性が憧れるファッションの世界。遺愛高校からイタリア・ミラノのファッションスクールへと進み、現在は雑誌編集者として活躍する高橋恵里さんは、そんな女性たちの憧れを実現したひとりです。函館で撮影された映画『海炭市叙景』でのアシスタントを機に、東京でスタイリストの仕事に従事。その後、雑誌編集者として、様々なファッション誌やブランドカタログを手がけてきました。今は海外移住を考えているという高橋さんに、函館の思い出と今後の展望を語っていただきました。
ー取材・文章:阿部 光平、撮影:馬場 雄介、イラスト:阿部 麻美
■転校、転校、また転校
━━まずはじめに、生まれた場所や幼少期のお話を聞かせてください。
高橋:生まれたのは函館です。たしか美原のあたりに住んでいたような。生まれてすぐ砂原に引っ越したので、その頃の函館の記憶はほとんどないんです。
━━転勤が多い家だったんですか?
高橋:そうですね。父親が銀行員だったので、2、3年に1回は渡島管内で転勤してましたね。生まれてすぐに砂原へ行ったけど、3歳くらいで函館に戻ってきて、花園幼稚園に通っていました。でも、5歳の時には、大成町に転勤といった感じで。
━━かなり頻繁なペースですね。引越しすることのストレスとかはありませんでしたか?
高橋:その頃は特に。小さかったので。大成にはけっこう長くいて、5歳から小学校4年生までを過ごしました。毎日学校帰りに海で遊んでましたね。お兄ちゃんとエアガン撃ったりして(笑)
━━大成は海が綺麗ですからね。でも、遊ぶのはエアガンだったんだ(笑)
高橋:もちろん海に入ったりもしてましたけどね。なぜかエアガンにハマってました(笑)。
━━小学校5年生からは、どこへ転校したのでしょう?
高橋:残りの小学校2年間は、また砂原でした。で、小学校卒業のタイミングで、今度は森町へ。そこで中学3年間を過ごしました。
━━中学校は転校せずに済んだわけですね。当時の森中学校は、何クラスくらいあったか覚えてますか?
高橋:4クラスですね。各クラス30人とか。規模としては函館市内の中学とあまり変わらない感じですかね。本当は2年生の時に、父が函館へ転勤になったんですけど、私は吹奏楽をやっていたこともあって、森に残ることにしました。濁川におばあちゃんが住んでいたので、そこから通うことにして。
━━中学生くらいになると友達と過ごす時間や、繋がりも濃密になってくるから、離れるのが余計に寂しくなりますもんね。
高橋:そうですね。ついに自分の意思で転校を回避しました(笑)。
━━中学卒業後は、どんな進路を選んだのでしょう?
高橋:遺愛高校の英語科に進学しました。最初から高校は函館に行くと決めていたので。
━━森中学校から函館の高校へ進む人は多いんですか? それと、なぜ遺愛高校の英語科を選択したのでしょう?
高橋:森から函館に出るのは半分くらいですかね。もう半分は地元の高校に進む感じでした。遺愛を選んだの決め手は制服ですね(笑)。セーラー服が着たかったので。
━━なんとも女子中学生らしい理由ですね(笑)。将来的に英語を使えるようになりたいという気持ちもあったんですか?
高橋:将来的にどうこうというのはなかったですね。もともと英語が好きだったので、単純に勉強したいなと思ったくらいで。
━━なるほど。高校3年間で特に力を入れたり、情熱を注いでいたことはありますか?
高橋:んー…。遊んでましたね(笑)。
━━遊びたい盛りですからね(笑)。ちなみに、当時は何して遊んでました?
高橋:何してたんだろ。たぶん、大したことはしてないですね(笑)。映画はよく行ってたかな。それと、クラブですね。CocoaとかSTONE LOVEとか。あとはバイトしてました。マクドナルドとか函太郎とか。朝市のきくよ食堂でも。
━━バイトは遊ぶためにという感じですか?
高橋:それもあるけど、服を買いたいというのが一番でしたね。自分でバイトして好きな服を買いたかったって感じです。お金貯めて、汽車に乗って一人で札幌とか行ってました。服を買うためだけに。
━━ファッションへの関心や、クラブ遊びなどが好きになった背景には、誰かからの影響があったのでしょうか?
高橋:全部、お兄ちゃんですね。2つ上にお兄ちゃんがいて、お兄ちゃんの友達とかと一緒に遊ぶことが多かったので。ライブハウスとかクラブにも、最初はお兄ちゃんたちと行ってたけど、そのうちに自分の友達と行くようになりました。悪いことは全部、お兄ちゃんに教わりましたね(笑)。
━━高校生くらいでも一緒に遊ぶということは、けっこう仲がよかったんですね。高橋さんにとって、お兄さんはどんな存在だったのでしょう?
高橋:憧れとかいうよりは、友達って感覚だったと思います。友達ぐるみで遊ぶことが多かったので。
━━今でも仲はいいですか?
高橋:いいけど、あまり話さなくなりましたね(笑)。ちょっと、だらしなかったりするから。真面目じゃないというか、「どうにかなるっしょ!」って感じが嫌で(笑)。でも、仲はいいです!
■ファッションを学びにミラノへ
━━高校卒業の後は、進路などで悩みましたか?
高橋:特に悩みませんでしたね。ミラノに行くという気持ちが固まっていたので。
━━イタリアですか。高校で勉強してきた英語の言語圏ではないですが、どんな目的があったのでしょう?
高橋:そもそも私がいたのは英語科だったので、留学する人が多かったんです。お互いが話して「じゃあ私も行こう!」みたいな感じではなく、「どうする?」「私はオーストラリア行くよ!」みたいな。
私はファッションを学びたかったんです。最初はロンドンとかニューヨークとかパリとか、いろんなファッション都市を考えていたんですけど、ロンドンは日本人が多いし、ニューヨークは危ないからダメだと親に言われ、パリもピンとこなくって。住みたいと思ったのが、ミラノだったんです。
━━では、高校を卒業してすぐミラノへ向かったんですか?
高橋:それが、親的にはやっぱり心配だったみたいで。行ったはいいけど「やっぱり嫌だった」とかで戻ってくるのは困りますって感じで。1年間、真剣に考えろって言われたんです。それでもどうしても行きたかったら、行ってもいいよと。なので、とりあえずイタリア語を勉強するために1年間東京の語学学校に通いました。
━━確かに18歳の娘をイタリアに出すのは心配でしょうね。東京に来たいという気持ちではなく、イタリア語を勉強できる環境が近くになかったから仕方がなく東京に来たという感じですか?
高橋:そうですね。できれば東京には来たくありませんでした。あまり好きになれなさそうな気がしたので。
━━それはどういった点で好きになれないと感じたのでしょう? 来る前は、東京にどんなイメージを抱いてましたか?
高橋:騒がしいって感じですね。あとは、みんなストレスを抱えて生きているってイメージがありました。東京に住んだら、それがうつっちゃいそうだなぁと思ってて。
━━実際に、来てみて感じた東京も同じような印象でしたか?
高橋:最初は良かったですね。好きな服を買いに行くのに、何時間も汽車に乗らなくて済むし(笑)。でも、あまり印象に残っていないということは、それほど楽しくなかったのかも。とにかく、早くイタリアに行きたいと思ってました。
━━その想いは果たされたのでしょうか?
高橋:そうですね。1年後には、ミラノのファションスクールに通うことになりました。最初は現地の語学学校に通って、その後、DOLCE & GABBANA(※1)のデザイナーが卒業した学校のスタイリングコースに入りました。
━━入学試験は大変でしたか?
高橋:試験はなくて、お金を払えば誰でも入れるというシステムでした。ただ、もちろん授業は全部イタリア語で、ついていけないと1年ごとに落第者が出るという環境です。
━━入学は簡単だけど、卒業するのが難しいというシステムですね。
高橋:実際、入った時には日本人も数人いたんですけど、3年後、卒業する時には私を含めて2人しか残っていませんでした。
━━スタイリストになるための学校というのは、具体的にそのような勉強をするのでしょうか?
高橋:向こうでいうスタイリストというのは、ファッションエディターと同じような感じで、雑誌をディレクションする授業がメインでした。なので、グラフィックデザインやカメラの勉強もしましたね。自分たちでモデルを探して、スタイリング・撮影して、1冊の雑誌を作るようなカリキュラムでした。
━━日本でいうスタイリストは、衣装屋さんから服を借りてきて、スタイリングをするというイメージですが、それとは少し違う感じですね。
高橋:そうですね。ファッション雑誌寄りの勉強でした。
━━なるほど。学校以外で、ミラノの3年間はいかがでしたか?
高橋:けっこう遊んでましたね(笑)。向こうでも、遊び方は日本とあまり変わらなくて、公園で飲んだり、クラブに行ったりとか、家でパーティしたりとかしてました。
■エキストラ募集で掴んだ上京のチャンス
━━ファッションスクールを卒業した後は、そのままイタリアで働くつもりだったのでしょうか?
高橋:そういうつもりはなかったですね。日本に帰ろうと思ってました。向こうが就職難だったのと、ちょっとホームシックだったので。卒業してから、一度実家に帰り、勉強してきたことを活かすために、誰かのアシスタントになろうと思っていました。
━━函館でスタイリストの仕事を探していたということですか?
高橋:さすがに函館には、私が求めるような仕事はなかったので、東京の仕事を探してました。親には「仕事がちゃんと見つかってから上京しなさい」と言われていたので、履歴書に「すぐに上京できます」って書きながら就活してました。でも、結局東京に住んでないから、ぜんぜん採用してもらえなくて、どうしたもんかなって感じでしたね。結局、そのまま半年くらいは函館にいました。
━━確かに、履歴書だけでやる気を伝えるのは難しいですもんね。仕事としての実績があるわけでもないし。
高橋:そうですね。それで、どうしようかなと思ってた頃に、函館で『海炭市叙景』という映画の撮影があったんです。そこでエキストラの募集を見つけて、「仕事に繋がる誰かと知り合えるんじゃないか」と思って応募しました。
オーディションには、監督とかプロデューサーの方がいたので、「本当はエキストラじゃなく、スタッフをしたいんです」って話したんです。その映画は、低予算の作品で、アシスタントを連れて来れないという事情があったらしく、運良く手伝わせてもらえることになりました。
━━素晴らしい行動力ですね。自らきっかけを掴みに行ったと。初めて関わる映画の現場はいかがでした?
高橋:すっごい大変でしたね。朝早いし、近くに俳優さんがいるとドギマギしちゃうし(笑)。でも、それが終わったあと、スタイリストの方から、東京に出る気があるのならアシスタントやらないかって声をかけてもらったんです。それですぐ上京しました。
━━思惑通りといった感じですね。東京にやってきてからは、スタイリストのアシスタントとして、どのような生活をしていましたか?
高橋:私が上京したときには、別の映画の仕事が決まっていて、すぐに働き始めたんですけど、とにかく寝れないくらい忙しい日々でした。しかも、他のアシスタントの人と反りが合わなくて…。結局、3ヶ月くらいで辞めちゃったんですよね。
映画のスタイリストというのは、ファッションというよりも衣装なので、ミラノで勉強してきたことが活かせる職場でもありませんでした。その人のところにいたら、ずっと映画衣装の仕事ばっかりになっちゃうなと思った時に、やっぱりファッションに携わりたいなという気持ちが強くなってきて。
━━では、そこからまた仕事探しが始まったわけですね。
高橋:そうですね。でも、すぐに次の仕事が見つかりました。今はもうないんですけど、VOGUE(※2)という雑誌のメンズ版で『VOGUE HOMMES JAPAN』というのがあって。そこでファッションエディターをしていた方が雇ってくれました。仕事内容は雑誌の編集アシスタントですね。クレジットやショップリストを作ったり、誌面を校正したりというような。
ここでの仕事は、イタリアで勉強してきたことに近かったので、やりがいがありました。海外のファッション誌の撮影とか、ユニクロや資生堂のCMのディレクションなど、色々な仕事に携われたのは良い経験になりましたね。
━━CMにおけるスタイリストの関わり方というのは、どういった感じなのでしょう?
高橋:衣装やヘアメイクさんを手配して、撮影に臨むというのが主ですね。CMだと衣装のブランド名とかのクレジットを出せないので、衣装はレンタルではなく購入していました。いろんな店で、衣装をリサーチするのも仕事でしたね。結局、そこでは1年半ほど働いていました。
━━ファッション、スタイリスト、雑誌作りと、仕事内容的には高橋さんが理想とする職場のようにも見えますが、なぜ辞めることにしたのでしょうか?
高橋:給料がでなかったので。スタイリストのアシスタントって、けっこう給料が出ないところが多いんですよね。仕事というよりも、経験を得る場所というか。なので、仕事内容的には楽しかったんですけど、忙しくてあまりプライベートもなかったし、親の仕送りで生活するのも申し訳なかったので辞めることにしました。
━━好きな学校にも行かせてもらったのに、いつまでも親に面倒を見てもらうわけにはいかないと。で、また就職活動ですか?
高橋:そうですね。まぁ、慣れたもんです(笑)。次に入ったのが、今いる雑誌の編集プロダクションです。
■編集者として思い描く次のステップ
━━では、現在のお仕事の内容を教えてください。
高橋:今の会社に入社したのが3年前で、当初は講談社の『HUgE』(※3)という雑誌を作っていました。あとは、伊勢丹メンズとかワコールのカタログ制作も雑誌と並行してやってましたね。具体的には企画、撮影、構成、発注、校正といった一連のページ作りが仕事です。
『HUgE』はもう休刊になってしまったので、今は『metropolitana』(※4)というフリーペーパーをメインで作っています。いわゆるタウン情報誌ですね。
━━単刀直入に、仕事は楽しいですか?
高橋:メンズファッション誌を作りたかったので、最初の頃はすごく楽しかったです。タウン誌もつまらなくはないけど、やはりファッションに携わりたいというのが正直な気持ちですね。だからというわけではないですが、8月いっぱいで今の仕事は辞める予定です。
━━では、また就活ですか?
高橋:ん~、具体的にはまだ決まってないんですけど、もう一回、海外に住みたいと思ってます。もう少し客観的に日本を見たいという気持ちがあって。
どこでもそうだと思うんですけど、住み慣れちゃうと、つまらなくなってくるじゃないですか。飽きてくるというか。今よりもイタリアにいた時の方が、日本や日本のファッションへの関心が高かったんです。それってやはり客観的に見れてたからだと思うんですよね。
━━それはあるかもしれませんね。長くいると、新鮮味がなくなってくるというか。具体的にはどこの国に興味を持っていますか?
高橋:ドイツですね。ベルリンに住みたいなと。まだ何となくですけど。
周りにけっこうゲイの人がいるんですけど、面白い人が多いんですよ。ドイツってゲイカルチャーの先進国なので、そのあたりにも興味があります。
━━なるほど。ちなみに函館に帰ろうかなという気持ちはありますか?
高橋:歳をとったら帰りたいとは思いますね。もう仕事をしなくていいくらいになったら。函館は好きだけど、やっぱりファッション関係とかのやりたい仕事がないんですよ。
━━そんな中でも函館が好きと思えるのは、どんなところですか?
高橋:街というよりも人ですね。家族や友達がいるから。それは世界中どこを探しても、函館にしかないので。
━━現在、住んでいる東京にはどんな感想を持っていますか?
高橋:東京には何でもありますよね。変なことも、面白いことも。夜遊びでき流とこも多いし、若いうちは本当に楽しめる街だと思います。
だけど、だんだん飽きてきちゃうってのは否めないですね。行くところがだいたい同じになってくるし。毎週末、同じ店で飲むみたいな。函館だったら宅飲みでいいと思っちゃうんですけどね。
━━東京でも宅飲みでいいんじゃないですか?
高橋:函館の宅飲みと、東京の友達とする宅飲みは、なんかちょっと違う感じがします。函館の友達って昔から誰かの家で飲むスタイルだったから、そっちの方が居心地がいい感じがするんですけど、東京だと家で飲むといっても何か用意しなきゃって気になるというか。昔から一緒の人と、仕事とかで知り合った人という距離感の違いがあるからだとは思うんですけど。
━━今でも函館に帰ると友達の家で飲みますか?
高橋:飲みに行くことは少なくなりましたね。帰ると、だいたい家にいます。だけど、遊ぶとしたら友達の家に行きますね。そういう変わってなさも楽しいというか。
━━18歳で函館を出てから約10年が経ちますが、最近の函館はどのように見えますか?
高橋:「何もないな」と思います。
━━昔はもっといろんなものがありました?
高橋:昔は、そんなに感じていなかったのかもしれないですね。求めるものが変わったり、こっちの生活に目が慣れたというのもあると思うけど、東京の感覚で同じことしようと思ったら何もないなと感じます。クラブとか飲み屋とか、それにまず公共交通機関が少ない。
でもやっぱり食べ物は美味しいし、気を使わなくていい友達がたくさんいるというのは何物にも代えがたい魅力ですけどね。
━━帰る場所があるというのは本当に幸せなことですよね。
高橋:そうですね。心強いです。でも、とりあえず今はまだ、色々なところへ行って、場所に縛られずいろんな仕事をしたいと思っています。
(※1)DOLCE & GABBANA
イタリアを代表するファッションブランド。1985年に、イタリア人デザイナーのドメニコ・ドルチェとステファノ・ガッバーナによって設立された。
(※2)VOGUE
アメリカのファッション雑誌。ハイファッションの最先端をいく雑誌として知られ、世界18カ国で出版されている。
(※3)HUgE
2003年に創刊された男性向けファッション誌。ファッションの他に、音楽や美術などのカルチャーを取り扱った。2014年に休刊している。
(※4)metropolitana
東京メトロの駅構内で配布されているフリーマガジン。「もう一歩、私になる」をコンセプトに、様々な街にスポットを当てた特集を組んでいる。
とき田
「本町にある居酒屋、オススメは『あんこうの唐揚げ』と『ヒラメの昆布締め』。」
函太郎
「函館に帰ったら必ず行って、絶対に生タラバガニを食べます。東京では絶対たべれません。カニの太さが違います。」
エンカウンターで友達と飲む
「何を話すわけではないのに、地元の友達とのお酒はなぜか楽しい。結婚して、子どもができても相変わらずなのがいいのかも。エンカウンターはお兄ちゃんのお店です。」