技術で仕事をする〝職人〟に憧れ、『お直し屋』という職業に辿り着いた蒲生貴之さん。函館を出てから、東京、ロンドン、名古屋と様々な土地を渡り歩き、2014年の夏に地元へ帰ってきました。現在は自身が開業したお直し屋で洋服のリペアに取り組む傍ら、DJとして自主イベントを運営。2015年には待望の第一子も産まれ、家族3人で函館生活を満喫しています。そんな蒲生さんに〝これまで〟と〝これから〟のお話を伺いました。
ー取材・文章:阿部 光平、撮影:妹尾 佳、イラスト:阿部 麻美
■言葉が通じない環境で芽生えた〝職人〟への憧れ
━━はじめに、現在の生活やお仕事についてお聞かせいただけますか?
蒲生:今は函館に住んでいます。仕事は個人で洋服のリサイズやリペアなどの〝お直し〟をしつつ、夜はアイリッシュパブでアルバイトをしています。
━━今の仕事は、いつ頃から始められたのでしょう?
蒲生:函館に帰ってきたのが2014の8月で、アイリッシュパブで働き始めたのが10月頃です。帰ってきてからまずアルバイトを始めて、昼間は独立するための準備をしていました。お直し屋をスタートさせたのは、2015年の1月末ですね。
━━お直し屋さんというのは、具体的にどのようなことをしているのですか?
蒲生:一番多いのはズボンの丈ツメですね。次はデニムのリペア。デニムの破れをきれいに塞いだり、良い雰囲気で履けるように直しています。その他には、スーツのサイズ直しなどもやっています。例えば、型の古いスーツは肩パットが分厚いので、それを薄くしたり、袖や肩幅を詰めたりして、今風に直したりとかもしています。
━━お店はどの辺りにあるのでしょうか?
蒲生:店舗は構えてなくて、作業は実家の事務所を間借りして行っています。インターネットや電話で注文を受け、ご自宅までピックアップしに行き、その場でフィッティングをして、持ち帰って直すという流れです。もちろん、直し終わった服は、直接ご本人のところまで届けています。
━━実際に家まで取りに来てくれて、しかもその場でサイズ合わせもやってもらえるというのは嬉しいサービスですね。
蒲生:小さい街だからこそできるサービスかもしれません。作業としても、お客さんの顔を見てからの方が、完成のイメージがしやすいですし。
━━そもそも、蒲生さんが、お直しという仕事を始めたきっかけは何だったのでしょう?
蒲生:大学時代に遡るんですけど、3年生の時に半年間イギリスに留学していたんです。その時に約1ヶ月の冬休みがあって、それを利用してひとりでヨーロッパ旅行をしたんですよね。言葉も通じないところで様々な経験をしていく中で、漠然と「腕一本で仕事をして、技術でお金を稼ぎたい」と思うようになりました。それで〝職人〟に憧れるようになったんです。
━━「服を直したい」という気持ちよりも、「職人になりたい」という気持ちが先にあったということですか?
蒲生:そうですね。まず職人になりたいと思うようになって、そこから何の職人になろうかと考え始めました。
━━なるほど。では、数ある職人という職業の中で〝お直し〟を選んだ理由は何だったのでしょう?
蒲生:帰国後、どんな職人になろうか考えていたんですが、ちょうどその頃に、デニムのリペアという仕事があることを知ったんです。もともと洋服が好きだったのもあって、「これはいいかもな!」と思いました。大学が東京だったので、すぐに東京近郊のお直し屋さんを探したんです。
いくつかのお直し屋さんを見つけて話を聞きに行ったんですが、経験もないから雇ってもらえるところはなくて…。まぁ、当然といえば、当然なんですけど。そうこうしているうちに、4年生の12月になっていたんです。「周りは内定とかもらってるのに、俺は何も決まってない」みたいな状態でした。
━━「俺は職人になるんだ!」と腹をくくっているとはいえ、内心ちょっと焦りますよね。自分だけ置き去りにされていくような不安感というか。
蒲生:そうですね。だけど、その時ちょうど、友人から渋谷にお直し屋があるという情報を得たんです。とりあえず話だけでも聞きに行こうと、電話もかけずに飛び込みました。「お直しの仕事に興味があるんですが、どうしたら働けるようになりますか?」って感じで。
服飾の学校を出たわけでもないし、お直しの経験も当然ない。それどころかミシンすら触ったことがないという状態だったんですけど、社長がすごく親身に話を聞いてくれたんです。そしたらなんと、元々は社長自身も学校とかを出ていない未経験者だったことがわかったんですよ。
━━その点は、蒲生さんと似たような境遇だったんですね。社長さんは、なぜお直しの世界に入ったのですか?
蒲生:元はアパレルの営業をやっていたそうなんですけど、その中で販売だけではなくリペアの仕事も取ってくるようになったらしいんです。そしたら今度は、お直しの方の手が回らなくなり、自分も手伝うようになったみたいで。そこで技術を学んで、独立したということでした。
━━だからこそ、蒲生さんのような熱意ある人を応援したいという気持ちがあったのかもしれませんね。
蒲生:そうですね。結局、そこでも「人手は足りてるから雇うことはできない」と言われたんですが、平日の夕方とか、忙しくない時間帯だったら、ミシンの使い方を教えてくれるという話になったんです。
さらに、卒業の1ヶ月前になって、社長から「3月で辞めちゃう人がいるから、やる気があるならウチに来ない? 経験ない分、給料は安いけど」という連絡をいただいて。もちろん「やります!」と即答しました。
■悔いを残さないために出かけた長期海外旅行
━━実際に、お直し屋で働いてみた感想はどうでしたか?
蒲生:まず「楽しいな!」と。今までに関わったことのない業種だったので、仕事を覚えること自体が楽しかったです。何より技術というのは、やればやるほど身につくものなので、段々と上手くなっていくのが楽しくて仕方なかったですね。
━━途中で嫌になったりとか、別の職種にすればよかったと思うことはありませんでしたか?
蒲生:それは仕事なので、嫌なこともありましたし、どうしても上手くいかないという技術面での壁に当たることもありました。けど、辞めようと思ったことは一度もなかったですね。それは、未だにないです。
ただ、食べていくためには給料が足りなかったので、夜は渋谷にあるHOME(※1)というクラブでアルバイトをするようになりました。
━━なぜ、アルバイト先としてクラブを選んだのでしょう?
蒲生:HOMEでは学生の頃からDJをしていて、スタッフの人にお直し屋で修行を始めたことを話すと「うちで働く?」と誘ってくれたんです。そこで働いているうちに、音楽をやっている様々な人と出会い、イベントの作り方とかブッキングの仕方も学びました。気づけば、クラブ遊びがライフワークになってましたね(笑)。
━━DJとしても活動していた中で、特に印象的だった出来事はありますか?
蒲生:DJ SCRATCHY(※2)というアーティストが来日した際に、ジャポニクス(※3)主催のイベントが開催されて、そこにDJとして参加させてもらえたことですね。実際に見たDJ SCRATCHYは、オシャレで紳士的だけど、DJは攻撃的で、むちゃくちゃカッコよかったです。
━━自分の夢であるお直し屋として修行を積みながら、DJとしても着実に活躍の場を広げていったと。そこから独立までには、どのような道筋を辿ったのでしょうか?
蒲生:お直し屋には約4年間勤めていました。僕はそもそも独立することを前提に修行をしていたので、いつかは辞めるつもりだったんです。社長も、最初から独立には賛同してくれていて、技術だけではなく営業などの勉強もさせてもらいました。
━━では、独立する準備が整ったから、辞めることになったと。
蒲生:そういうわけではないんです。実際、もっと学べることはあったと思います。ただ、その頃から函館に帰るという気持ちが強くなっていました。もちろん、独立を前提としてです。そういう計画をリアルに思い描いた時に、今のうちにやっておかなければいけないことがあると思ったんです。
━━「今のうちにやっておかなければいけないこと」とは何だったのでしょう?
蒲生:海外への長期旅行ですね。学生の頃からあちこち行ってたんですけど、独立して自由な時間がなくなってしまう前に、行きたいところへ行っておきたいという気持ちをずっと抱えていたんです。
━━まず最初に函館に帰ろうという想いがあって、その前に旅行へ行きたいという計画があり、それを逆算する形で仕事を辞めたと。
蒲生:そういうことですね。それで、中南米を中心とした旅に出たんです。その時に付き合っていた彼女と2人で。期間は約半年でした。
━━中南米をメインにしたのは、なぜですか?
蒲生:いろんな目的がありましたが、一番は音楽ですかね。彼女も僕も音楽が好きで、特に中南米の音楽が好きだったんです。
あとは、なるべく遠いところに行こうとも考えていました。十何時間も飛行機に乗るような旅をするなら、体力的にも今だろうと。
━━半年の旅で、最も良かった場所を教えてください。
蒲生:キューバは、とても良かったです。社会主義ということもあってか、他の国とは大きく異なる印象を受けました。
━━具体的には、どのような点で違いを感じましたか?
蒲生:勝手なイメージですけど、社会主義国って貧しいと思っていたんです。だけど、実際に現地の人と話している中で、どこの国よりも心豊かな人が多いなと感じました。
キューバの前にいたメキシコでは、貧富の差がとても激しく、田舎の方へ行けば行くほど殺伐とした雰囲気だったので、余計に。
しかも、ちょうど日本がアメリカとTPPを結ぶかどうかというニュースが話題になっている時で、アメリカと自由貿易協定を結んだことで貧富の差が拡大したメキシコの姿が、未来の日本に重なって見えたというか。反対に、アメリカとの国交を絶っているキューバの方が、みんな楽しそうに暮らしていることが、とても印象的でした。
━━念願の長期旅行が実現した後は、すぐ函館へ戻ることになったのですか?
蒲生:いや、函館に戻ったのは、帰国から約1年後でした。実は旅行の最後、彼女にプロポーズをしたんです。サプライズだったんですが、驚きながらもOKしてくれて。それで、函館に帰る計画を具体的に立て始めたという感じです。
引っ越しするためにも、独立するためにも、まずはお金が必要だということで、2人でひたすら貯金をしました。僕は名古屋へ出稼ぎに行ったんですが、仕事は辛いけど、未来に向かっている実感があったので気持ちは前向きでしたね。
■熱血ラガーマンから、渋谷のクラブDJへ!
━━では、時代をグッと遡って、函館にいた頃のお話を聞かせてください。
蒲生:生まれたのは本通です。4年生まで本通小学校に通っていて、引越しの関係で5年生からは青柳小学校に転校しました。中学は、そのまま潮見で、高校は有斗に行きました。
━━学生時代にハマっていたことや、情熱を注いでたことはありましたか?
蒲生:情熱を注いだことと言えば、高校のラグビー部ですかね。友達の兄貴が陵北高校でラグビーをやっていて、高校に入る前の春休みに観に行ったんです。相手は、自分が入学することになっていた有斗高校でした。
最初は友達の付き合いで行ったんですけど、実際に観てみたらカッコよくて。中学まではバスケをやってたんですけど、高校ではラグビーをやることに決めました。
━━有斗高校といえば、ラグビーの強豪校だったと思うんですけど、最高成績はどのくらいでしたか?
蒲生:1年と3年の時に、南北海道で2位になったのが最高成績でした。とにかく高校3年間はラグビー一色でしたね。
━━その頃、卒業後の進路はどのように考えていました?
蒲生:ラグビーばかりしていましたが、かといってラグビーで進学しようという気持ちは全然なくて、とにかく東京に行きたいと思っていました。
━━東京へ行きたいという気持ちは、いつ頃、どこから芽生えてきたのでしょう?
蒲生:特に理由は覚えていないですけど、中学生の頃から何となく「函館出るんだろうなぁ」とは思ってました。先輩とかでも、東京に出て行く人が多かったので。なので、東京の大学へ進学したんですけど、何を学びたいというのは特になくて、とにかく東京へ行くための進学でしたね。
━━函館から出てきた18歳の少年の目に、東京の街はどのように映りましたか?
蒲生:単純に人が多いなぁと思いました(笑)。これだけでも、函館にはない風景だと。
━━確かに、そうですよね。新宿や渋谷あたりは、毎日が『港祭り』くらいの人出ですもんね(笑)。大学では、特に何を勉強したいという目標がなかったとのことですが、実際にはどんなキャンパスライフを送っていたのでしょう?
蒲生:大学にはあまり馴染めませんでしたね(笑)。ギャル男みたいな、チャラチャラした人が多かったので。バイト先の方が、気の合う連中が多かったので、そっちの友達と遊ぶことが多かったです。DJもやってたので、クラブにもよく行ってましたね。
━━DJは、どのようなきっかけで始めたのでしょう?
蒲生:高校生の頃からやってて、それも周囲の影響ですね。DJやってた人が多かったので。東京に出てからも帰省する度に、函館でレゲェやスカのイベントを開催したりしてました。
そこにたまたま、東京でレゲェやスカのDJをしている函館出身の人が遊びに来てて、「俺も東京でレゲエやスカのイベントやってるから遊びにこいよ」って誘ってくれたんです。で、実際に行ってみたら「スタッフやらない?」ってことになって。最初は雑用でしたけど。
━━DJ業界というのは、意外と体育会系なんですか?
蒲生:そうですね。ジャンルにもよると思いますけど、そういう傾向はありますね。まずは雑用や先輩の荷物持ちから始まって、その後はあまりお客さんが入らない早い時間帯で30分くらいのプレイ時間をもらったりとか。僕の場合は、最初に遊びに行ってから2ヶ月くらいで、ブースに立つ時間をもらえるようになりました。
■東京で身につけたリペア職人とDJという二足のわらじ
━━蒲生さんは、函館に戻ってきた今でもDJイベントを主催しているそうですが、東京でのイベントと比較して何か違いを感じる部分はありますか?
蒲生:それはかなりありますね。出演するDJやお客さんを含めて、函館は保守的な人が多いのかなと感じます。お酒を飲まない人が多いことに驚きました。
あとは、そもそもクラブという場の位置付けが違うのかなと。東京では「何のイベントに行こう」というよりも「どこのクラブに行こう」という遊び方が多かったように思います。要するに、各クラブに独自の色があったので、どんなイベントかわからなくても、そこに行けば面白いことをやっているという安心感と気軽さがあったんです。飲んだ延長で、ふらっと遊びに行けるというか。
函館のクラブにはそういった特色がありませんね。クラブの全体数が少ないから、いろんなイベントが入り混じるのは仕方ないと思うんですが。イベント自体も少なくて、週末とかにしかなかったりするので、前もって調べておかないと自分好みなイベントには出会えません。
━━なるほど。お酒を飲む人が少ないというのは、車社会だというのがひとつの要因かもしれませんね。東京だと終電も遅くまであるし、始発も早いので。クラブ遊びに限らず、函館に帰ってきてから飲みに出歩く機会は減りましたか?
蒲生:アイリッシュパブで働いてるので、仕事終わりにお客さんと飲みに行くことはありますが、東京にいた頃と比べると格段に減りました。
━━それはやはり交通の便がネックになっているのでしょうか?
蒲生:僕が住んでるのは五稜郭なので、そういった面は気にならないんですけど、交通の便がネックで一緒に行ける人が少ないというのはありますね。バスや電車が終わるのも早いし、代行で帰るとなると出費もかさむので、気軽には誘えないというか。
━━その辺りはやはり、東京にはあって、函館にはない部分ですね。交通の便以外で、函館に帰ってきてから不満に感じるところはありますか?
蒲生:不満とは少し違いますが、東京との違いで感じるのは「函館の人は前例がないことに対するアレルギーが強い」ということですね。少しでも変わった提案をすると「そんなのは函館では通用しない」と頭ごなしに否定されることが多々あります。
━━先ほど、クラブに来る人たちが保守的だというお話がありましたが、それ以外の部分でも保守的な考え方が強いということですかね?
蒲生:そうですね。例えば、お直し屋をやりながら、アイリッシュパブでアルバイトしていることは、自分としては合理的だと思っているんです。10年近く地元を離れていたので、人との繋がりが少ないんですが、飲み屋で働くことは人脈を広げるために有効だし、結果的にはお直しの仕事にも繋がっていくだろうと。だけど、そんな話をすると「そんな中途半端じゃいけないよ」とかって言われます。
東京だと、何か新しいことを始めたいと話すと「いいね!」「おもしろそうじゃん!」と前向きに捉えてくれる人が多いじゃないですか。実際に協力してくれるかという部分は別としても、気分を盛り上げてくれるという意味で、意欲も湧きますし。
━━そういった意味では、東京の方が新しいことを始めやすい環境と言えるのかもしれませんね。反対に、東京にはないけど、函館にはあると感じるものはありますか?
蒲生:ちょっと矛盾になるかもしれないですけど、「何もないということ」ですかね。何もないからこそ、何かを始めやすいという部分もあると感じます。東京は何を始めるにも激戦だけど、函館には手つかずのフロンティアがけっこうたくさん残っているというか。
━━前例がない分、やりにくい部分もあるけど、逆にチャンスも広がってるということですね。では、次に〝東京〟と〝函館〟の違いではなく、〝10年前の函館〟と〝今の函館〟の違いについて、何かあれば教えて下さい。
蒲生:街を歩いている人が減りましたよね、明らかに。特に夜の五稜郭は、活気がなくて寂しく感じます。以前は帰省する度に、街で誰かとすれ違ったけど、今は誰とも会わないですね。
━━最近、色々なところで〝地方移住〟という話題が挙がっていますが、実際に東京から函館に移り住んだ実感はいかがですか?
蒲生:函館に引っ越すことに関して、東京の友達からは「せっかく東京で頑張ってるのに、もったいないよ」という意見もあったんですが、僕としては「何もない」函館で何かを始めるということはステップアップだと感じています。後ろ向きな気持ちはひとつもなくて、次のステージに上がったという感じなので、今は人生が順調に進んでると思ってます。
━━函館での活動がステップアップになるというのは、とても希望のある言葉ですね。移住で悩んでいる人に、何か伝えたいことなどはありますか?
蒲生:思ってるよりも生活は楽になるんじゃないかなと思います。東京のように忙しい中で生活してる人たちにとっては特に。僕個人としては、ストレスも減りました。確かに景気は良くないけど、心は豊かになるのではないかなと。
あとは子育てもしやすいと思います。待機児童の問題なんかもないですしね。こういう環境で育った身としては、東京で子どもがひとりで電車に乗ってる姿とかも、見ていて辛かったので。
━━子どもがいると、今まで以上に心の余裕というのが大切になりますからね。では最後に、これからの人生設計を聞かせてください。
蒲生:仕事の面では、お直し屋をもっと大きくしていきたいです。ゆくゆくは人も雇いたいですし、函館を拠点として他の都市に店を出したいなとも考えています。
趣味であるDJに関しては、東京で自分が作ってきた繋がりで、もっと素晴らしいアーティストを呼んできて、素晴らしいバンドやDJを函館のみんなに見せてあげたいなと思っています。自分が感じてきた最高に楽しいことを、地元のみんなと共有したいというのが、今の大きな目標ですね。
(※1)HOME
東京都渋谷区にあるクラブ。アコースティックのライブから、オールナイトのクラブイベントまで、日夜様々なイベントが行われている。
(※2)DJ SCRATCHY
ザ・クラッシュのワールドツアーに同行していたことで知られるイギリス出身のDJ。パンクのイベントで初めてレゲェを取り入れたDJとされる。
(※3)ジャポニクス
東京を拠点に全世界で活動している音楽プロダクション。CUMBIA、ROCK LATINO、PACHANGAなど、彼らが初めて日本に紹介した音楽も多い。
ともえ大橋からの景色
「車からの函館に向かってる時の景色が気に入ってます。」
おさむ屋
「『かしらや』という焼き鳥屋から独立したお店で、ガツ刺しが絶品。ポン酢で食べると最高。」
PALM WINE STORE
「中学校の先輩が経営しているアンティークショップ。当時からの憧れで、今でもカッコ良いものだけを見せてくれます。」